『聖書の解釈者としての哲学』とコレギアント派

 

 メイエルが1666年に匿名で出版した『聖書の解釈者としての哲学』は激しい論争を引き起こした。この論争によって、次のような論点をめぐっていた。神学と聖書解釈において理性はどのような役割を果たすべきか。聖書解釈にあたって依拠すべき真の原理はなにか。哲学はどのような地位を占めるのか。そして哲学の神学への侵入を引き起こしているのはどの教会のどのグループなのか。

 『聖書の解釈者としての哲学』はコレギアント派からの反論を招いた。とりわけ、コレギアント派のなかでも、三位一体を否定するソッツィーニ主義に与するグループからの反論を招いた。『聖書の解釈者としての哲学』は、コレギアント派には共に共同戦線を張ることを求めながらも、ソッツィーニ派に対しては、聖書を全面的に理性に沿って解釈しようとせず、聖霊に助けを求めてしまうとして否定していた。これに対して、コレギアント派内のソッツィーニ主義のグループが反発した[とははっきりと著者は書いていないものの、そう読むしかないように思える]。これにより、コレギアント派内部での対立(ソッツィーニ主義のグループと、三位一体を認めるより保守的なグループが対立していた)は、さらに深まることになる。

 『聖書の解釈者としての哲学』を批判したコレギアント派に、Jan Pietersz Beelthouwerがいる。彼は1667年の著作で、聖書の預言が曖昧であるというメイエルの主張に対して、スピノザの立場を対置させ、これを支持している。また、コレギアント派の中でも、三位一体を支持する千年主義者であったPieter Serrariusは、聖書の真の意味は、聖霊から来る「内的な光」によってのみ理解できるとして、メイエルの著作を批判した。Serraiusは、メイエルのように、自然の光と神から来る光を混同するのは、哲学をキリストの上に置くことだとした。