ホッブズとスピノザによる神学批判を扱った論考を読む。非常に明晰に書かれており、学ぶところが多い。以下ではまず論文の内容を要約し、それから疑問点を挙げる。
ホッブズによれば、現在のキリスト教国家のうちには、霊的な暗黒の要因が4つある。そのうちの一つは、空虚なアリストテレスの哲学がキリスト教に混入したことである。それにより、スコラ学者たちが意味をなさない神学の学説を大量に大学で生み出すことになった。そのような学説は、ローマ法王の支配にお墨付きを与えられるとともに、法王の権力を維持することに貢献している。このような霊的な暗黒を取り除くためには、これまで神学で論じられてきた事柄を、空虚な哲学から切り離さなくてはならない。ではこの時、神学が論じてきた聖書の問題はどう論じられるようになるのか。
ホッブズは、聖書の問題は法の問題として論じられなければならないと主張する。たとえば伝統的には「聖書の権威は何に由来するのか」という問いが立てられ、それにひとまず「聖書が神の言葉だからである」と答えが与えられてきた。その上でさらに「いかにしてわれわれは聖書の言葉が神の言葉であると知るのか」、および「なぜわれわれは聖書が神の言葉であると信じるのか」という問いが立てられてきた。しかし、ホッブズによれば、第一の問いには、預言者でなければ答えられず、私たちは預言者ではないので答えられない。第二の問いへの答えは人によって様々であるため、統一的な答えは得られない。したがって、「聖書の権威は何に由来するのか」という問いは不適切である。
ホッブズは適切な問いは、「いかなる権威によって聖書が法とされるのか」というものだとする。こうすることで問題は聖書が神の言葉という性質を持つかどうかではなく、誰が聖書を解釈し法として提示することができるかというものになる。ここから問いは、キリスト教国の主権者である王や合議体は、聖書を解釈し法を定める権威を持つのか、それともそのような権威はローマ・カトリック教会が持つのか、というものになる。こうして「従来神学が論じてきた『聖書の権威は何に由来するのか』という問いは、完全に政治学の問いへと変換される」(76ページ)。
スピノザは、人々や神学者が、自分に他人を従わせるために解釈していることを批判する。このようなことが起こるのは、聖書に何か深遠な真理が書かれていると思われているからである。しかしスピノザによれば、聖書は真理を教えない。聖書は「神に服従せよ」と命じるだけである。スピノザはこの命令を下す啓示を、神の言葉と呼び、それを神学とも呼ぶ。これにより神学からは、神に関する学問的な知はすべて取り除かれ、そのような知は哲学に属するとされる。「したがって、スピノザの神学者批判は、伝統的な神学の枠組みそのものの転覆も含んでいるのである」(80ページ)。
スピノザは、神への服従をもたらす信仰に、2つの効用があるとする。第一の効用は、預言者が神の正義と慈愛を教えることで、人間がそれらを自らの生活指針として模倣できるということである。第二の効用は、啓示からただ神に服従するだけで救いがもたらされると教えられることで、誰にでも救いは起こりうるのだという慰めを多くの人々が得られるということである。
以上から著者は次のように結論する。
ホッブズとスピノザにおけるこうした神学批判の戦略には、少なくともその理論上においては、福岡が描き出した聖書解釈の両極性よりもはるかに強い両極性を見て取ることができる。というのも、ホッブズが神学の領分を政治学の領分へと移し替えたのに対して、スピノザは神学そのものの枠組みを再構築しているからである。(83–84ページ)
この結論で「両極性」という言葉が使われているポイントが、私には分からなかった。論文からは、ホッブズとスピノザの神学批判が違うものだということは理解できる。しかしそれを違いがあるというだけでなく、両極性があると表現する理由は何なのだろうか。両極性というからには、何か同一の軸があり、その軸の上で対立しているという理解があるのだろう。しかし本論文にはその同一の軸が何であるのかが書かれていない。もしかするとそれは、ホッブズとスピノザがともに神学を学知と見なしていないという点にあるのかもしれない(ホッブズが神学を学知と見なしていないことは注3に書かれている)。この点が明確にされていないため、なぜこの論文がホッブズとスピノザをともに取り上げなければならなかったのかも私には分からなかった。
もう一つこの論文で気になったのは、スピノザ『神学政治論』の史料としての扱いである。まず、次の箇所の訳文に疑問を覚える。
実際、単純な服従が救いへの道であることを、われわれは自然の光によっては知得しえず、むしろ啓示のみが、理性によってはわれわれが達することができない神の個別的な恩寵から生じたことを教えるのだから、そのことから聖書が死すべき者どもにきわめて大きな慰め(solamen)をもたらすということが帰結する。実にすべての人が無条件に服従することができるのであり、理性の指図のみから徳の習性を獲得する人は、全人類と比べれば、きわめて少数に限られる。したがって、もしわれわれがこの聖書の証言をもっていなかったならば、われわれはほぼすべての人の救いについて疑っていたことだろう。(TTP 15, §10)(81–82ページ)
第一に、この箇所の「むしろ啓示のみが、理性によってはわれわれが達することができない神の個別的な恩寵から生じたことを教える」という訳に疑問がある。これはラテン語では、"sed sola revelatio doceat id ex singulari Dei gratia, quam ratione assequi non possumus, fieri" である。これは「むしろ啓示だけが、私たちが理性によっては理解できない神の個別的な恩寵からそれが生じるということを教える」と訳せる。ここでの「それ」は、おそらく「人が神への単純な服従から救われる」ということだろう。また、神の個別的な恩寵というのは神学用語であり、万人に与えられている普遍的な恩寵と区別され、神に選ばれた者だけに与えられる恩寵を指す。ここでは、神に服従した者にだけ与えられる恩寵を指すのだと思われる。以上から、この箇所は「神に単純に服従した者には、神から個別的に恩寵が与えられ、その恩寵によってその者に救いがもたらされるということは、啓示だけが教える。この救いをもたらす個別的な恩寵がどんなものであるかは理性によっては理解できないからだ」ということを述べていると分かる。
続く「そのことから聖書が死すべき者どもにきわめて大きな慰め(solamen)をもたらすということが帰結する」の訳文にも疑問がある。ここはラテン語では、"hinc sequitur Scripturam magnum admodum solamen mortalibus attulisse"である。attulisseは完了形であるため、「もたらす」ではなく「もたらした」としなければならないのではないだろうか。ただしここに関しては、畠中訳は「聖書は生きとし生ける者にとって極めて大きな慰めをもたらすといふ結論になる」(下巻162ページ)とし、吉田訳は「したがって聖書は、死すべき定めの人間たちにきわめて大きな慰めをもたらしてくれることになる」(下巻147ページ)とし、両方とも現在形で訳している。何かあえて現在形で訳す理由があるのかもしれない。なおCurleyの英語訳では、"It follows that Scripture has brought great comfort to mortals"であり(Collected Works of Spinoza, 2:281)、PUF版のフランス語訳では"il en résulte que l'Ecriture a apporté aux mortels un grand soulagement"である(PUF版『神学政治論』503ページ)。
引用に関してもう一つ気になったのは、『神学政治論』ではまだ文が続いているのに、本論文ではあたかもそこで文が切れているかのように引用されている場合があることである。たとえば、次の箇所である。
思うに、われわれの見るところ、神学者たちは自らの仮想や意見をいかにして聖なる言葉からもぎ取るのか、いかにして神の権威によってそれらを強化するのかを主に気にかけており、ためらうことなく大胆に、聖書ないし聖霊の精神を解釈している。(TTP 7, §1)(77ページ)
「神学者たちは…主に気にかけており」は、"theologos sollicitos plerumque fuisse"なので、訳文でも完了形のニュアンスを出した方がいいのではないだろうか。ただし、ここでも畠中訳、吉田訳、PUF版訳が現在形で訳している(Curley訳は完了形)。何かスピノザの完了形の使い方には特殊な事情があるのかもしれない。それはともかくとして、この引用の「解釈している」は、『神学政治論』では文末に来ているのではない。ここはまだ文の途中であり、その後もさらに文章が続いている。同じことは、79ページにある『神学政治論』第15章第6節の引用についても言える。これらの場合、「後略」などと書いて、引用に省略があることを明記する必要がある。