『聖書の解釈者としての哲学』とヴォルツォーゲン

 

 メイエルの『聖書の解釈者としての哲学』は、デカルト主義者からの反論も招いた。デカルト主義者ルードヴィッヒ・ヴォルツォーゲン(Louis Wolzogen)は、1662年よりユトレヒト大学で神学教授をつとめていた。彼は1667年の11月に『聖書の解釈者について』を出版する[出版された本に記された刊行年は1668年になっている]。彼は同じくユトレヒトにいたフェルトホイゼンやビュルマンらデカルト主義者とともに、二つの両極端の中道を行こうとしていた。片方の極には、哲学を神学に、理性を啓示に従属させるヴォエティウス派の主張があった。もう片方には、神学を哲学に従属させるメイエルの立場があった。これに対してヴォルツォーゲンらは、神学と哲学のあいだのバランスを保とうとした。そこでヴォルツォーゲンは、聖書を解釈するにあたっての理性の正当な使用と、啓示を理性に従属させてしまうような許されない使用のあいだの境界線を引こうとした。

 ヴォルツォーゲンは、聖書の教えは理性の教えに反することはないという原則から聖書解釈をする必要があると主張した。この点で彼は神学における理性の役割を重要視している。しかし彼は、理性の使用に重要な条件をつけた。まず神学でも真理とされる理性の教えは、哲学によって証明された真理に限られる。また、哲学的真理と神学的真理が一致すると言っても、この一致の領域からは、キリスト教の中核的な神秘は除かれなければならない。なぜなら、それらの神秘は理性を超えているからである(ただし理性に反することはない)。

 ヴォルツォーゲンの主張は批判を招いた。理由の一つは、彼が『聖書の解釈者としての哲学』に比べてソッツィーニ主義を高く評価したからである。ヴォルツォーゲンは、中核的な神秘の教義も含めて神学を全面的に理性に従属させる『聖書の解釈者としての哲学』とは違って、ソッツィーニ主義者たちは聖書を理性に反する形で解釈することは避けながら、それでいてキリスト、聖霊、そして聖書本文への敬意を払っているとして評価した。第二に、Wolzogenは理性と啓示が衝突しないとする点で、『聖書の解釈者としての哲学』に同調していたからであった。これらの点をヴォルツォーゲンはデーフェンターの神学者たちに批判されることになる。