両極性の所在 笠松「ホッブズとスピノザにおける神学批判の戦略」

 ホッブズスピノザによる神学批判を扱った論考を読む。非常に明晰に書かれており、学ぶところが多い。以下ではまず論文の内容を要約し、それから疑問点を挙げる。

 ホッブズによれば、現在のキリスト教国家のうちには、霊的な暗黒の要因が4つある。そのうちの一つは、空虚なアリストテレスの哲学がキリスト教に混入したことである。それにより、スコラ学者たちが意味をなさない神学の学説を大量に大学で生み出すことになった。そのような学説は、ローマ法王の支配にお墨付きを与えられるとともに、法王の権力を維持することに貢献している。このような霊的な暗黒を取り除くためには、これまで神学で論じられてきた事柄を、空虚な哲学から切り離さなくてはならない。ではこの時、神学が論じてきた聖書の問題はどう論じられるようになるのか。

 ホッブズは、聖書の問題は法の問題として論じられなければならないと主張する。たとえば伝統的には「聖書の権威は何に由来するのか」という問いが立てられ、それにひとまず「聖書が神の言葉だからである」と答えが与えられてきた。その上でさらに「いかにしてわれわれは聖書の言葉が神の言葉であると知るのか」、および「なぜわれわれは聖書が神の言葉であると信じるのか」という問いが立てられてきた。しかし、ホッブズによれば、第一の問いには、預言者でなければ答えられず、私たちは預言者ではないので答えられない。第二の問いへの答えは人によって様々であるため、統一的な答えは得られない。したがって、「聖書の権威は何に由来するのか」という問いは不適切である。

 ホッブズは適切な問いは、「いかなる権威によって聖書が法とされるのか」というものだとする。こうすることで問題は聖書が神の言葉という性質を持つかどうかではなく、誰が聖書を解釈し法として提示することができるかというものになる。ここから問いは、キリスト教国の主権者である王や合議体は、聖書を解釈し法を定める権威を持つのか、それともそのような権威はローマ・カトリック教会が持つのか、というものになる。こうして「従来神学が論じてきた『聖書の権威は何に由来するのか』という問いは、完全に政治学の問いへと変換される」(76ページ)。

 スピノザは、人々や神学者が、自分に他人を従わせるために解釈していることを批判する。このようなことが起こるのは、聖書に何か深遠な真理が書かれていると思われているからである。しかしスピノザによれば、聖書は真理を教えない。聖書は「神に服従せよ」と命じるだけである。スピノザはこの命令を下す啓示を、神の言葉と呼び、それを神学とも呼ぶ。これにより神学からは、神に関する学問的な知はすべて取り除かれ、そのような知は哲学に属するとされる。「したがって、スピノザ神学者批判は、伝統的な神学の枠組みそのものの転覆も含んでいるのである」(80ページ)。

 スピノザは、神への服従をもたらす信仰に、2つの効用があるとする。第一の効用は、預言者が神の正義と慈愛を教えることで、人間がそれらを自らの生活指針として模倣できるということである。第二の効用は、啓示からただ神に服従するだけで救いがもたらされると教えられることで、誰にでも救いは起こりうるのだという慰めを多くの人々が得られるということである。

 以上から著者は次のように結論する。

ホッブズスピノザにおけるこうした神学批判の戦略には、少なくともその理論上においては、福岡が描き出した聖書解釈の両極性よりもはるかに強い両極性を見て取ることができる。というのも、ホッブズが神学の領分を政治学の領分へと移し替えたのに対して、スピノザは神学そのものの枠組みを再構築しているからである。(83–84ページ)

 この結論で「両極性」という言葉が使われているポイントが、私には分からなかった。論文からは、ホッブズスピノザの神学批判が違うものだということは理解できる。しかしそれを違いがあるというだけでなく、両極性があると表現する理由は何なのだろうか。両極性というからには、何か同一の軸があり、その軸の上で対立しているという理解があるのだろう。しかし本論文にはその同一の軸が何であるのかが書かれていない。もしかするとそれは、ホッブズスピノザがともに神学を学知と見なしていないという点にあるのかもしれない(ホッブズが神学を学知と見なしていないことは注3に書かれている)。この点が明確にされていないため、なぜこの論文がホッブズスピノザをともに取り上げなければならなかったのかも私には分からなかった。

 もう一つこの論文で気になったのは、スピノザ『神学政治論』の史料としての扱いである。まず、次の箇所の訳文に疑問を覚える。

実際、単純な服従が救いへの道であることを、われわれは自然の光によっては知得しえず、むしろ啓示のみが、理性によってはわれわれが達することができない神の個別的な恩寵から生じたことを教えるのだから、そのことから聖書が死すべき者どもにきわめて大きな慰め(solamen)をもたらすということが帰結する。実にすべての人が無条件に服従することができるのであり、理性の指図のみから徳の習性を獲得する人は、全人類と比べれば、きわめて少数に限られる。したがって、もしわれわれがこの聖書の証言をもっていなかったならば、われわれはほぼすべての人の救いについて疑っていたことだろう。(TTP 15, §10)(81–82ページ)

 第一に、この箇所の「むしろ啓示のみが、理性によってはわれわれが達することができない神の個別的な恩寵から生じたことを教える」という訳に疑問がある。これはラテン語では、"sed sola revelatio doceat id ex singulari Dei gratia, quam ratione assequi non possumus, fieri" である。これは「むしろ啓示だけが、私たちが理性によっては理解できない神の個別的な恩寵からそれが生じるということを教える」と訳せる。ここでの「それ」は、おそらく「人が神への単純な服従から救われる」ということだろう。また、神の個別的な恩寵というのは神学用語であり、万人に与えられている普遍的な恩寵と区別され、神に選ばれた者だけに与えられる恩寵を指す。ここでは、神に服従した者にだけ与えられる恩寵を指すのだと思われる。以上から、この箇所は「神に単純に服従した者には、神から個別的に恩寵が与えられ、その恩寵によってその者に救いがもたらされるということは、啓示だけが教える。この救いをもたらす個別的な恩寵がどんなものであるかは理性によっては理解できないからだ」ということを述べていると分かる。

 続く「そのことから聖書が死すべき者どもにきわめて大きな慰め(solamen)をもたらすということが帰結する」の訳文にも疑問がある。ここはラテン語では、"hinc sequitur Scripturam magnum admodum solamen mortalibus attulisse"である。attulisseは完了形であるため、「もたらす」ではなく「もたらした」としなければならないのではないだろうか。ただしここに関しては、畠中訳は「聖書は生きとし生ける者にとって極めて大きな慰めをもたらすといふ結論になる」(下巻162ページ)とし、吉田訳は「したがって聖書は、死すべき定めの人間たちにきわめて大きな慰めをもたらしてくれることになる」(下巻147ページ)とし、両方とも現在形で訳している。何かあえて現在形で訳す理由があるのかもしれない。なおCurleyの英語訳では、"It follows that Scripture has brought great comfort to mortals"であり(Collected Works of Spinoza, 2:281)、PUF版のフランス語訳では"il en résulte que l'Ecriture a apporté aux mortels un grand soulagement"である(PUF版『神学政治論』503ページ)。

 引用に関してもう一つ気になったのは、『神学政治論』ではまだ文が続いているのに、本論文ではあたかもそこで文が切れているかのように引用されている場合があることである。たとえば、次の箇所である。

思うに、われわれの見るところ、神学者たちは自らの仮想や意見をいかにして聖なる言葉からもぎ取るのか、いかにして神の権威によってそれらを強化するのかを主に気にかけており、ためらうことなく大胆に、聖書ないし聖霊の精神を解釈している。(TTP 7, §1)(77ページ)

 「神学者たちは…主に気にかけており」は、"theologos sollicitos plerumque fuisse"なので、訳文でも完了形のニュアンスを出した方がいいのではないだろうか。ただし、ここでも畠中訳、吉田訳、PUF版訳が現在形で訳している(Curley訳は完了形)。何かスピノザの完了形の使い方には特殊な事情があるのかもしれない。それはともかくとして、この引用の「解釈している」は、『神学政治論』では文末に来ているのではない。ここはまだ文の途中であり、その後もさらに文章が続いている。同じことは、79ページにある『神学政治論』第15章第6節の引用についても言える。これらの場合、「後略」などと書いて、引用に省略があることを明記する必要がある。

デカルトの書簡からのダッシュの省略 津崎良典「真理とは何か?」

 

  • 津崎良典「真理とは何か?:神による永遠真理の自由な創造に関するデカルトの理説をめぐって」『現代思想』vol. 52-1, 2024年、203-212ページ。

 デカルトの永遠真理創造説についての論文を読む。一箇所非常に気になる箇所があったので、記録として残しておく。

 205ページには以下のように、デカルトメルセンヌ宛書簡(1630年4月15日)が引用されている。

人はあなたに、もし神がそれらの〔永遠的とあなたが呼ぶ数学的〕真理を設定したのなら、神はそれらを、ちょうど王が自分の法に対して行うように、変えることもできるであろう、と言うでしょう。それに対しては、然り、もし神の意志が変えることができるなら、と答えなければなりません。―しかし、私はそれらの真理を永遠で不変のものと理解します。―そして私はといえば、神についても同様だと判断するのです。しかし、神の意志は自由です。

 この引用では、「そして私はといえば、神についても同様だと判断するのです。しかし、神の意志は自由です」はひと続きの文となっている。しかし実際には、「しかし、神の意志は自由です」の前には「―」が入っている。このダッシュがこの引用では省かれている。

 『デカルト全書簡集』第1巻135-136ページの訳では、ダッシュが訳出されている。

神がこれらの真理を確立したのであれば、王が自らの法を変えるように神は真理を変えうると、言う人がいるかもしれません。神の意志が変わりうるのであれば、それに対して肯定で答えなければなりません。―しかし、私は真理を永遠で不変なものと理解しております。―そして神についても同じだと私は考えております。―しかし、神の意志は自由です。―そうです、しかし、神の力は把握不可能です。そして一般的に、神はわれわれの把握することならすべてなしうるとわれわれは断言できます。しかし、われわれの把握できないことを神がなしえないというわけではありません。というのも、われわれの想像力が神の力と同じだけの広がりをもっていると考えることは、畏れ多いからです。

 ここからは、デカルトがここで次のような仮想的な対話を展開していることが分かる。Aが対話相手で、Bがデカルトである。

A「神がこれらの真理を確立したのであれば、王が自らの法を変えるように神は真理を変えうる」

B「神の意志が変わりうるのであれば、それに対して肯定で答えなければなりません」

A「しかし、私は真理を永遠で不変なものと理解しております」

B「そして神についても同じだと私は考えております」

A「しかし、神の意志は自由です」

B「そうです、しかし、神の力は把握不可能です。そして一般的に、神はわれわれの把握することならすべてなしうるとわれわれは断言できます。しかし、われわれの把握できないことを神がなしえないというわけではありません。というのも、われわれの想像力が神の力と同じだけの広がりをもっていると考えることは、畏れ多いからです」

 このような対話の展開を見えなくさせる点で、ダッシュの省略はデカルトの文書の理解を妨げている。

 実際、「真理とは何か?」論文は、書簡のこの部分の展開を不適切な形で解説している。208ページには次のようにある。

私たち人間は、神は数学や論理学における真理を変更しないものと「判断する」とデカルトは述べていた。しかしこの〈判断〉は、神はそうあって欲しいという願望の裏返しではないのか。神はやはり、その「絶対的な力能」をもってすれば、人間が確信している数学や論理学の真理を、さらにはそれを構成要素とする自然法則を変えるかもしれないし、実際のところ、人間が理解しているのとは異なる事態をすでに成立させているかもしれない。実際、デカルトは1630年4月15日付のメルセンヌ宛書簡において、「判断するのです」云々と述べた舌の根も乾かぬうちに、「しかし神の意志は自由です」と付け加えていたではないか。

 確かにデカルトは「判断するのです」の直後に「しかし神の意志は自由です」と付け加えている。しかしこの「しかし神の意志は自由です」というのは、対話相手による反論である。『デカルト全書簡集』の訳を使って解説するなら、直前でB(デカルト)が「そして神についても同じだと私は考えております」と述べている。これは、「そして神についても永遠で不変なものと私は考えております」ということである。この発言にたいしてAが、「しかし、神の意志は自由です」と反論している。これは、「神の意志は自由なのだから、神の意志は不変ではない」ということである。さらにこのAの反論に対して、B(デカルト)は「そうです、しかし、神の力は把握不可能です……」と返している。ここの解釈は私にはうまくできないものの、「神が永遠で不変である」というのと「神の意志は自由である」ということが両立可能であることの根拠として、「神の力は把握不可能です」という主張が導入されているように読める。

 このような対話の進行の一部として現れる「しかし神の意志は自由です」について、「「判断するのです」云々と述べた舌の根も乾かぬうちに、「しかし神の意志は自由です」と付け加えていたではないか」と解説するのは、不適切であるように思われる。ましてこの付け加えから、神が「人間が理解しているのとは異なる事態をすでに成立させているかもしれない」という可能性を認めることはできない。むしろ、デカルトの書簡からは、神の意志が自由であるということと、神が不変であることは両立するのだから、神が自由であるからといって神が「人間が理解しているのとは異なる事態をすでに成立させているかもしれない」と危惧する必要はない、という正反対の主張が読み取れる。

ユトレヒト紛争の顛末 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 29–33.

 基本書の続きを読む。ユトレヒト紛争を扱った最後の箇所である。

 デカルトは『ヴォエティウス宛書簡』をユトレヒト市に送った。その結果、彼の期待とは反対に状況は悪化し、デカルトへの訴訟が提起されてしまう。デカルトはフランス大使に働きかけ、訴訟を取りやめさせることになんとか成功した。

 デカルトはさらに、グローニンゲン大学に対して、同大学の教授であるスホーキウスを訴えた。この時のグローニンゲン大学の学長は、ヴォエティウスと対立していたマレシウスであり、またスホーキウスのヴォエティウスに対する感情は悪化していた。このためもあってか、大学はデカルトを満足させる判決を下すことになる。1645年4月10日付けの判決で大学は、『驚くべき方法』の本当の著者はヴォエティウスであるというスホーキウスの証言を採用した。ここから、『驚くべき方法』の著者はスホーキウスなのか、ヴォエティウスなのかという争いが継続することになる。

 その争いのなかで明らかとなったのは、『驚くべき方法』がどのように書かれたかであった。スホーキウスによる詳細な証言によると、まずデカルトの『ディネ師宛書簡』の詳細な検討を含む序文と、デカルトを異端者ヴァニーニになぞらえた第四節は、着想はヴォエティウスによるものの、スホーキウスによって書かれたものであった。また第二節と第三節は完全にスホーキウスの手になるものである。第一節は著者が判然としない。それはスホーキウスの考えを反映しているのであるが、最終的にヴォエティウスの同意を経ていると考えられる。したがって、『驚くべき方法』をスホーキウスの著作と見なすことに問題はない。ただし、その執筆にヴォエティウスガ深く関わっていたのは事実である。

 『驚くべき方法』を巡る論争は、ユトレヒトでのヴォエティウスの立場を弱めることになった。そもそも市は1642年3月15日の決定で、レギウスに医学だけを教えるように命じたことにより問題は解決したと考えていた。1643年の「法律」にはデカルト主義者への攻撃が含まれていたものの[この「法律」は何?]、その後も市は1652年にデカルト主義者のデ・ブリュインをを教授に任命することになる。1642年に始まったデカルト主義への弾圧は、表面的なもの以上にはならなかったのである。

『驚くべき方法』と『ヴォエティウス宛書簡』 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 19–29.

 基本書を読み進める。ここで著者は、ユトレヒト紛争の第2段階として、スホーキウスの『驚くべき方法』とデカルトの『ヴォエティウス宛書簡』を検討している。

 ユトレヒトでの論争は、デカルトが『省察』の第2版を1642年の春に出版したことによって新たな段階に入った。デカルトは第2版に『ディネ師宛書簡』を収録した。彼はその後半部でヴォエティウスを激しく攻撃した。デカルトによれば、ヴォエティウスはデカルトの議論に反論できないから、彼の哲学を禁止する方向に動いたのだという。デカルトはまた、ユトレヒト大学がデカルト哲学を禁じた決定に関しても(それを起草したのはもっぱらヴォエティウスだと見なしつつ)批判した。決定では、デカルトの哲学は古代の哲学の軽視を招くとされており、この点でとりわけ神学にとって有害であるとされていた。しかしデカルトに言わせれば、彼の哲学はすべての理性的な存在者が認める原理に基づいている以上、一般的に言われている「古代哲学」よりもなお古いと見なせるのだった。

 ヴォエティウスは直ちに反撃した。彼の要請により大学は『経緯陳述』Narratio Historicaと題された文書を作成し、そこでレギウスへのヴォエティウスの対応を擁護した。またヴォエティウスは教え子であり、グローニンゲン大学の哲学教授を務めている、マルティン・スホーキウスにデカルトを攻撃する著作を執筆するように頼んだ。スホーキウスは1643年に『驚くべき方法』を出版した。そこでスホーキウスは、過去の学説も自らの感覚も信じないデカルトの方法は、狂人や熱狂主義者が取るものと同じだと批判した。またスホーキウスは、デカルトは「間接的な無神論者」だというヴォエティウスの従前の批判(これはヴォエティウスが1639年に行った「無神論について」という討論に見られる)も継承した。スホーキウスによれば、デカルトによる神の存在証明は堅固ではない。またデカルトの証明は、神の観念を私たちが有しているという前提から出発するものの、そもそも無神論者は自らが神の観念を有していないふりをしているものである。以上の2点からして、デカルトの証明は無神論者に対して無力である。

 デカルトは『驚くべき方法』の校正刷りをいち早く入手し、反論を1643年の4月、ないしは5月に『ヴォエティウス宛書簡』として出版した。デカルトはヴォエティウスを『驚くべき方法』の実質的な著者とみなした。デカルトの議論は主としてヴォエティウスという人物への攻撃になっている。たとえば彼は、ヴォエティウスとサミュエル・マレシウスの論争を取り上げて、論争好きなヴォエティウスは、同じく正統派に属するマレシウスにまで攻撃をするのだから、デカルトがターゲットになったとしても、デカルトに責めるべきところがあるわけではないと主張している。またデカルトは、ヴォエティウスのような説教師は、そのような立場を利用して、他人や世俗権力を批判するべきではないとも主張している(これは、実質的にはレモンストラント派の主張と同一ではあるものの、だからといってデカルトがレモンストラント派に与していたと見なすべきではない)。

レギウスの討論とヴォエティウスの反論 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 14–19.

 本書の第1章ではいわゆる「ユトレヒト紛争」が取り上げられる。まず著者は、ヘンリクス・レギウスの1641年に行った討論が、どのような論争を引き起こしたかを解説する。

 ヘンリクス・レギウスは、デカルトの『方法序説』と三試論を読み、デカルト哲学に基づく独自の自然学体系を構築していた。ユトレヒト大学に着任したレギウスは、同大学にいたヘンリクス・レネリの仲介で、デカルトとやり取りをするようになる。デカルトはレギウスが自分の考えを出版物のなかで表明することには反対したものの、それを討論で表明することには賛意を示した。レギウスは討論の許可を当時学長であったヴォエティウスに求めた。ヴォエティウスはレギウスに医学についての討論を開催することを許可した。

 レギウスはまず『医学討論』と題された討論を行った(後に『生理学あるいは健康の認識』というタイトルで出版された)。3つの討論(それぞれ1641年4月5日、5月5日、6月30日に提出された)からなるこの討論のなかで、レギウスは人間が感覚する性質(たとえば暖かさと冷たさ)はすべて眼には見えない部分の配置と運動から来るとしている。また、人間の霊魂は非物体的で不死であり、考えているものであるとしている。

 続いてレギウスは1641年11月24日から、De illustribus aliquot quaestionibus physiologicisと題された討論を開始する。この討論のうちの最後の第3番目の討論(1641年12月8日に行われた)は、大変な騒ぎを引き起こした。その討論でレギウスは、人間の身体と霊魂はそれぞれが単独で完全な実体なのだから、それらのあいだの結合は偶有的なもの(accidental)であると主張した。この主張は、死後には身体と霊魂の偶有的な結合は解消されて、身体は完全に消滅し、それゆえ身体を伴っての復活は起きないという結論に至る危険性があった。当時身体を伴っての復活はソッツィーニ派が否定し、レモンストラント派が受け入れをためらっていたこともあり、センシティブな論点であった。このような主張に、討論に参加していた数多くの神学部の学生たちは衝撃を受けた。また、このような討論がヴォエティウスを始めとする神学者たちに宛ててなされていたことも問題であった。さらにレギウスが、ヴォエティウスによる聞き取り調査のなかで、この主張をデイヴィッド・ゴルラエウスに帰したことも状況を悪化させた。ゴルラエウスは正統派のなかでは悪名高かったからである。

 ユトレヒト大学の神学部は、ヴォエティウスが1641年12月18日の討論に3つの系を付して、そこでデカルトの哲学を批判することを認めた。ヴォエティウスは、人間が偶有的に一つであること、コペルニクスの世界体系、そして反アリストテレスの哲学を批判した。レギウスの名は言及されていないものの、彼が批判の対象となっていたのは明らかであった。

 さらにヴォティウスは12月23日と24日にに別の討論を行い、それらの討論への付録のなかで、アリストテレスの形相概念を否定する立場への批判を行った。ヴォエティウスによれば、もし実体形相を否定すれば、それぞれの存在が実体であると主張できなくなる。また形相を否定すれば、世界から二次原因は消滅し、すべての出来事が一次原因としての神に直接引き起こされることになる。最後に、形相を否定すれば、事物に対して種や類を認めることが不可能になる。ヴォエティウスはさらに、コペルニクスの世界体系と聖書のあいだの矛盾を指摘している。ヴォエティウスによれば、新哲学の提唱者たちが証明することは証明されておらず、しかも互いに異なっている。それらは時の試練に耐えてきた伝統的な哲学にとって代わる資格はないという。

 レギウスはデカルトのアドバイスを受けてヴォエティウスの付録への『返答』を出版した(1642年2月16日)。そこでレギウスは、アリストテレスの実体形相の教えは、形相が質料から引き出されるとするのだから、実体形相としての霊魂は物体となってしまうと主張した。レギウスによればこのような学説こそが無神論の危険を帯びているのだった。レギウスの『返答』は即座に回収処分となり、1642年3月に市当局はレギウスを『返答』を出版したために非難し、彼が医学以外を教えることを禁止した。また、同月に大学の教授たちが出し、市当局の同意を得た判決のなかで、レギウスは同じ大学の同僚と論争してはならないという暗黙の了解に反したために批判された。そこでは新哲学も断罪された[ここの記述は、Verbeek, La querelle, 120–122の記述によって少し補った]。それは上級学部、とりわけ神学部で学ぶことになる学生に偏見を与えるからであるという。こうしてユトレヒト大学はデカルト哲学を講じることを最初に認めた大学であり、なおかつそれを禁じた最初の大学になった。

 

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ゴルラエウスのオランダでの受容 Lüthy, David Gorlæus, 4.2 - オシテオサレテ

デカルト受容の二つの背景:大学と政治 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 6–12.

 基本書のプロローグの後半を読む。ここで著者は、デカルト哲学を巡る論争の背景として、当時のオランダでの大学教育と、政治状況について論じている。

 1575年に設立されたライデン大学では当初アリストテレスの哲学は教えられていなかった。しかし宗教に関する理論的なアプローチの一切を拒絶する熱狂主義者への対抗や、教義を巡る論争の激化に対処するために、より厳密な理論体系の導入が図られた。それはアリストテレスの著作の再導入によって行われることになる。

 ギスベルトゥス・ヴォエティウスはアリストテレスの哲学を支持した。彼によれば神は理性と感覚を通じて神を知るように人間に命じており、これをまさにアリストテレスの哲学は行っている。このため、信仰とアリストテレスの哲学の対立も起こりえないとされた。

 アリストテレスの哲学を警戒する者もいた。フラネカーのヨハネス・マコヴィウスは、オランダの大学にスコラ学を導入しようとしているとして、同じくフラネカーのウィリアム・エイムズに批判された。同じく正統派のサミュエル・マレシウスは、ヴォエティウスの哲学をカトリックに類似した逸脱だとして批判した。

 アリストテレス主義のあり方は多様だった。フランコ・ブルヘスダイクは、アリストテレス哲学の経験主義的な側面を強調し、矛盾律のような最も一般的な原則も経験によって確証されなければならないとした。Anton Deusingは、世界の構成原理を『創世記』に依拠して質料、スピリトゥス、光であるとし、この理論をアリストテレス的なものと見なした。

 アリストテレスの哲学はデカルト主義者に受け入れられもした。アドリアン・ヘーレボールトは、デカルト主義にも好意的な折衷主義者であり、スコラ学にも大きく依拠していた。ヨハンネス・デ・レイは、アリストテレスデカルトの哲学のあいだに共通性を見出した。ヨハンネス・クラウベルクは、デカルトの哲学をスコラ哲学のやり方で提示した。

 アリストテレスの哲学は自然誌を推奨しているとも理解された。デ・レイはアリストテレスは自然誌に貢献したと評価した(と同時に、この点を徹底しなかったと批判もした)。スホーキウスは、アリストテレスの哲学を支持しながら、デカルトの哲学を感覚を軽視するとして批判した。彼は農民や技術者から情報を収集している。ダニエル・ヴォエティウスは、ガッサンディアリストテレスにともに依拠し、デカルトにも賛辞を送ってすらいる。ゲラルド・デ・フリースは、アリストテレスを擁護してデカルトを批判しながらも、アリストテレスへの隷属は否定し、折衷主義的な立場をとった。

 オランダの大学には、アリストテレスとは異なる選択肢も存在していた。それはラムスであったりスカリゲルであったりベーコンであったりした。

 デカルト主義には政治的な側面もあった。この点はオラニエ派とヤン・デ・ウィットの対立が生じた17世紀後半に顕著である。デカルト主義者のフランス・ビュルマンがユトレヒトの神学教授に任命された背景には、デ・ウィット派のリベラルな勢力がユトレヒトの政治を担っていたことがあった。1692年にヤコブ・コールマンは、デカルトの哲学がライデンとユトレヒトで成功を収めたのは、両市の政治権力の後押しがあったからだとしている。

 政治権力の教会への従属を求める正統派と対峙していた支配階層にとって、デカルト主義が魅力的であった可能性は十分にある。実際、この対立はデカルト主義を巡る論争のなかでしばしば言及された。たとえば、ユトレヒト紛争にあたってデカルトは、ヴォエティウスが国家の平穏を乱しているとし、教会の構成員は民衆を教化することに専念すべきだとした。対してスホーキウスは、デカルトが貴族層と交際している点を攻撃している。

 正統派からの圧力があるにもかかわらずデカルト主義者が教授に任命されていたことは確かである。ライデン大学は、デカルトの名前に言及することを禁じた1647年の命令を確認した次の日に、デ・レイを教授に任命した。ユトレヒト大学はデカルト哲学を最初に禁止した大学でありながら、それ以後もレギウスがデカルト哲学を教えることを放置した。ヨハンネス・デ・ブリュインは、1652年にユトレヒトで教授となり、デカルト哲学を講じた。

 しかしだからといって、上位市民層のイデオロギーデカルトの哲学のあいだになにか密接な関係があったとはいえない。たしかにデカルト主義者たちによる神学と哲学を切り離すべきだという主張は、上位市民層の政策と合致していた。しかし、たとえばデ・ウィットはデカルトの数学的な著作には関心をいだいていたものの、ライデン大学で起きていたデカルト哲学をめぐる論争で、どちらかに肩入れしていた様子はない。彼はまた1656年のデカルト主義を断罪して決定を支持していた。

 以上のような宗教的、大学教育的、政治的な背景のなかで、デカルト哲学はオランダで受容されていくことになる。その際には、デカルトの哲学は、オランダの大学の状況に適合する形で改変された。同じようにデカルトの哲学への敵対者たちも、デカルト哲学の挑戦を受けて、伝統的な哲学と正統派の基準に合致するような応答をするように努めていた。

デカルト哲学を巡る論争の神学的背景 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 1–6.

 デカルト哲学がどのようにオランダで受容されたかを調べた基本書のプロローグの前半部分を読む。ここで著者は、デカルト哲学を巡る論争が、それ以前からなされていた神学論争と重ね合わされて理解されていたことを主張している。

 改革派の神学に従うなら、救いは善き行いによってもたらされるわけではない。救いは信仰によってのみもたらされる。では、神は信仰を持つ者(神が救う者)をどうやって選ぶのか。ここで神が自由であり、それゆえ自分以外から影響を受けないことを考えるなら、神が救う者を選ぶとき、神は恣意的に選ぶことになるのではないかという懸念が生じる。この恣意性は神の善性と正義と両立するのだろうか。

 この問題は17世紀前半のオランダでは大変重要なものであった。ヤコブアルミニウスはこの問題に対して、信仰は神から押し付けられるものでなく、各人の判断で受け入れることも拒絶することもできるものだとした。またアルミニウスは、選びと救いのために、各人ができることは何もないという教義は、神の知恵、善性、正義に反しているとした。アルミニウスの論敵は、正統派神学者のフランシスクス・ゴマルスであった。

 この問題はコンラッド・フォルスティウスを巡る論争でさらに拡大した。ホラント州は1610年にレモンストラント派(アルミニウス派)のフォルスティウスをライデン大学の神学教授に任命した。これに対して正統派の神学者たちは直ちに抗議をはじめ、南ホラントの教会会議はフォルスティウスの任命撤回を求めることになる。この動きに英国のジェームズ一世も同調する。オランダの孤立することを避けるためには、宗教上の問題を各州の管轄事項ではなく、連邦議会の管轄事項にせねばならなかった。これはレモンストラント派には大きな打撃だった。彼らはホラント州では多数派であっても、7つの州全体では少数派だったからである。

 フォルスティウスをめぐる論争は、聖書解釈を巡る問題へと論点を拡大させた。レモンストラント派によれば、聖書の解釈は人間が行うため、聖書解釈によって導かれた信条はすべて暫定的なものである。聖書そのものだけが教会の信仰の基礎となりうる。これに対して正統派は、聖書を信仰の究極の基礎として認めつつも、そこから解釈によって導かれた信条が暫定的なものだとは考えなかった。そのように考えてしまうと、懐疑主義無神論への道が開かれてしまう。聖書の解釈とは、論理と一般的に認められていることにしたがって、聖書で言われていることや示唆されていることを明確にすることである。この問題は、宗教改革の核心にある問題であった。改革者たちはカトリック教会の伝統や教皇の権威が信条を決定することを否定した。しかし同時に、各人の聖書解釈以外に何らの権威を認めようとしない再洗礼派やその他の熱狂主義者たちが秩序を破壊することも懸念していた。聖書のみを信仰の基準としながら、秩序を保つにはどうしたらいいのか。

 1625年に正統派を支持していたマウリッツが亡くなり、フレデリック・ヘンリドリックが州総督になると、レモンストラント派が復帰してくる。1622年にはシモン・エピスコピウスが『告白』を出版する。エピスコピウスは、聖書は「正しい理性」によって解釈されるべきだ主張し、また神は決して人間の自由を廃棄してはいないとした。『告白』はライデンの神学部によって禁書とされ、エピスコピウスは対抗して『弁明』を出版することになる。『告白』と『弁明』は激しい攻撃にさらされた。1631年にニコラウス・フェデリウスは『アルミニウス主義の秘密』を出版する。ギスベルトゥス・ヴォエティウスは、スホーキウスと協力して1635年に『テルシーテース』を出版した。また、1650年にはライデンの神学者ヤコブス・トリグラディウスがレモンストラント派のヨハネス・ウィテンボーゲールトの批判書を出版した。

 以上のようなアルミニウス主義を巡る論争は、デカルト主義を巡る論争と深く関係している。正統派の神学者たちは、デカルト主義はアルミニウス主義と同じように、オランダ内での意見の一致を脅かすものだとみなした。ヤコブス・レヴィウスは「アルミニウス主義は去ったが、その代わりにデカルト主義が来た。これはさらに悪いものである」(p. 5)と述べた。また、レモンストラント主義を巡る論争点の多くが、デカルト主義を巡る論争において再び取り上げられた。フェデリウスは著作の中でレモンストラント派の誤ちを列挙している。それは懐疑、懐疑主義無神論、理性と進行の関係、聖書の理性主義的解釈、根本的な信条と派生的な信条の区別、神の一性と単純性、意志の自由、身体と霊魂の関係についてである。これらの論点はデカルト主義を巡る論争でも取り上げられることになる。同じように、ヴォエティウスの『テルシーテース』で論じられた論点が再び、スホーキウスのデカルト批判書(『驚くべき方法』)で取り上げられることになった。

 また、レモンストラント派は、デカルトがレヴィウスとヴォエティウスと対立するのを見て、デカルトに好意的に言及するようになる。たとえば、レモンストラント派のバテリエは、デカルトのヴォエティウス評に言及する。また同じくレモンストラント派のエティエンヌ・ド・クルセルはデカルトの『方法序説』のラテン語訳を作成した。

 もちろん、レモンストラント派とデカルト主義のあいだに論理的なつながりがあるわけではない。ほとんどのデカルト主義者たちはレモンストラント派ではなく正統派であったし、レモンストラント派は神の観念の生得性を認めない点で、デカルトとは異なっていた。しかし、デカルトの人間の自由に関する解釈はしばしばペラギウス主義とされ、このペラギウス主義を媒介にして、レモンストラント派と関連付けられていた。さらにデカルト主義者たちが後にコペルニクス主義を支持したことは、彼らが聖書を合理主義的に解釈しているという批判を招いた。このようにデカルトと正統派の対立は、当時の宗教対立の枠組みのなかで解釈されたのである。