『聖書の解釈者としての哲学』とヴォルツォーゲン

 

 メイエルの『聖書の解釈者としての哲学』は、デカルト主義者からの反論も招いた。デカルト主義者ルードヴィッヒ・ヴォルツォーゲン(Louis Wolzogen)は、1662年よりユトレヒト大学で神学教授をつとめていた。彼は1667年の11月に『聖書の解釈者について』を出版する[出版された本に記された刊行年は1668年になっている]。彼は同じくユトレヒトにいたフェルトホイゼンやビュルマンらデカルト主義者とともに、二つの両極端の中道を行こうとしていた。片方の極には、哲学を神学に、理性を啓示に従属させるヴォエティウス派の主張があった。もう片方には、神学を哲学に従属させるメイエルの立場があった。これに対してヴォルツォーゲンらは、神学と哲学のあいだのバランスを保とうとした。そこでヴォルツォーゲンは、聖書を解釈するにあたっての理性の正当な使用と、啓示を理性に従属させてしまうような許されない使用のあいだの境界線を引こうとした。

 ヴォルツォーゲンは、聖書の教えは理性の教えに反することはないという原則から聖書解釈をする必要があると主張した。この点で彼は神学における理性の役割を重要視している。しかし彼は、理性の使用に重要な条件をつけた。まず神学でも真理とされる理性の教えは、哲学によって証明された真理に限られる。また、哲学的真理と神学的真理が一致すると言っても、この一致の領域からは、キリスト教の中核的な神秘は除かれなければならない。なぜなら、それらの神秘は理性を超えているからである(ただし理性に反することはない)。

 ヴォルツォーゲンの主張は批判を招いた。理由の一つは、彼が『聖書の解釈者としての哲学』に比べてソッツィーニ主義を高く評価したからである。ヴォルツォーゲンは、中核的な神秘の教義も含めて神学を全面的に理性に従属させる『聖書の解釈者としての哲学』とは違って、ソッツィーニ主義者たちは聖書を理性に反する形で解釈することは避けながら、それでいてキリスト、聖霊、そして聖書本文への敬意を払っているとして評価した。第二に、Wolzogenは理性と啓示が衝突しないとする点で、『聖書の解釈者としての哲学』に同調していたからであった。これらの点をヴォルツォーゲンはデーフェンターの神学者たちに批判されることになる。

『聖書の解釈者としての哲学』とコレギアント派

 

 メイエルが1666年に匿名で出版した『聖書の解釈者としての哲学』は激しい論争を引き起こした。この論争によって、次のような論点をめぐっていた。神学と聖書解釈において理性はどのような役割を果たすべきか。聖書解釈にあたって依拠すべき真の原理はなにか。哲学はどのような地位を占めるのか。そして哲学の神学への侵入を引き起こしているのはどの教会のどのグループなのか。

 『聖書の解釈者としての哲学』はコレギアント派からの反論を招いた。とりわけ、コレギアント派のなかでも、三位一体を否定するソッツィーニ主義に与するグループからの反論を招いた。『聖書の解釈者としての哲学』は、コレギアント派には共に共同戦線を張ることを求めながらも、ソッツィーニ派に対しては、聖書を全面的に理性に沿って解釈しようとせず、聖霊に助けを求めてしまうとして否定していた。これに対して、コレギアント派内のソッツィーニ主義のグループが反発した[とははっきりと著者は書いていないものの、そう読むしかないように思える]。これにより、コレギアント派内部での対立(ソッツィーニ主義のグループと、三位一体を認めるより保守的なグループが対立していた)は、さらに深まることになる。

 『聖書の解釈者としての哲学』を批判したコレギアント派に、Jan Pietersz Beelthouwerがいる。彼は1667年の著作で、聖書の預言が曖昧であるというメイエルの主張に対して、スピノザの立場を対置させ、これを支持している。また、コレギアント派の中でも、三位一体を支持する千年主義者であったPieter Serrariusは、聖書の真の意味は、聖霊から来る「内的な光」によってのみ理解できるとして、メイエルの著作を批判した。Serraiusは、メイエルのように、自然の光と神から来る光を混同するのは、哲学をキリストの上に置くことだとした。

顕名の著者と匿名の査読者 シザール『科学ジャーナルの成立』第3章

 

  • アレックス・シザール『科学ジャーナルの成立』柴田和宏訳、伊藤憲二解説(名古屋大学出版会、2024年)、115–153ページ。

 科学ジャーナルの歴史についての研究書の邦訳が刊行されたので、その第3章「著者と査読者」を読む。

 科学の発展に貢献したかどうかは、何よりも科学論文の執筆者(オーサー)であるかどうかによって判定される。このような考え方は当たり前に思えるかもしれない。しかし実際には、このような考え方が有力になったのは、ある特定の時期の特定の状況の中でのことであった。19世紀前半のイギリスでは、王立協会を改革しようとする動きがあった。改革を主導しようとした人々は、おおよそ次のように考えた。イギリスの王立協会は、フランスのアカデミーと違い、公的な援助を十分に受けられていない。これは、その有用性が十分に認知されていないからである。有用性が認知されるためには、協会の構成員(フェロー)になることが公衆から名誉とされなければならない。しかし現状は、フェローの選出は無計画に行われている。この状態を改善するため、彼らはある人が科学の発展に貢献しているかどうかを、その人がフェローであるかどうかよりも、協会が発行する『フィロソフィカル・トランザクションズ』に論文を寄稿しているかによって判定しようとした。フェローの選出ではなく論文の執筆を、名誉の基準としたわけである。

 このように科学への貢献の基準を論文のオーサーシップによって測ることは、すでにパリやプロイセンで行われていたことであった。このやり方の問題は、科学への貢献が個人によってなされると考えられるようになり、実際に科学の活動に参加しているより多様な種類の人々が見逃されてしまうことにある。たとえば、天文学や光学の分野において器具を作成していた職人たちであった。「科学人が著者になることにで、科学人にとっての一貫したアイデンティティの構築が促進された。だが同時に、さまざまなかたちの活動や共同が、自然哲学者や学者の活動にとっておおくの点で中心的な役割をはたしていたことが、見えづらくなってしまった」(125ページ)。

 同じ頃に査読システムの整備もはじまっていた。イギリスでの最初期の例は、ロンドン地質学会でのものである。協会の初代会長であるジョージ・グリノーは、協会の出版物の出版可否を決める規則を作り出した。これによると、まず投稿物を事務局長が判定し、その後「査読者(レフェリー)」に送られる。最終的に査読者のコメントが評議会に送られ、そこで出版の可否が最終的に決定される。

 査読のシステムが王立協会に入り込んだのは、1830年代のことであった。ウィリアム・ヒューエルは、パリの王立アカデミーでは、投稿された原稿について、委員会が報告し、それが公刊されているということに着目し、同じことを王立協会でもすべきだと提唱した。そのような報告によって「正確に評価されたいという確信からくる、著者にとっての励みと、要旨と批評による、科学情報の拡散の容易さ」が達成されると考えてのことであった(138ページ)。

 以前から専門家による審査システムを求める声はあったものの、実現していなかった。これに対してヒューエルの提案は受け入れられることになる。しかしこのシステムが実際に運用されるようになると、査読者は匿名となり、さらにその役割は著者を励ましたり、情報の拡散を促進したりするというよりも、むしろ出版される論文の質を保って王立協会の権威を守る門番というものになっていった。匿名になったのは、当時の定期刊行物にあったレビューの書き手が匿名であったことをモデルとしていた。査読者は匿名になることにより、偏りのない公的な審査ができるという期待された。しかし一方で、匿名査読は秘密主義であるとする非難も起こった(政府の秘密主義が攻撃されていた時代でもあった)。著者は誰が査読するかもわからないし、査読の報告書を入手することもできない。しかも、査読により刊行が遅れる。遅らせられるだけでなく、その間に査読者が査読している論文と似通った内容の論文を執筆できてしまう、などなどの批判が寄せられた。査読結果に憤り(どうにかして入手した)査読報告を出版するぞと、協会を脅迫する著者も現れた。協会は査読についての内規を整備するとともに、ついに会員数を制限することで、査読の権威を守ろうとした。

 このようにして、顕名の著者(オーサー)、匿名の査読者という体制が整備されていったのだった。著者は次のように結論づけている。

ヴィクトリア朝の科学のなかで、査読者が重要人物として登場したとき、その地位と役割は何度もくりかえし変化した。実際、査読者をおもに門番として見ようとすることで、査読者という読者=批評家が科学の生活のなかではたすと考えられた多様な役割―たとえば、広報係、助言者、統合者、判定者―が見えにくくなってしまう。19世紀中盤までに、査読者は報奨を授与し、科学協会の評判を守る者だと広く理解されるようになった。だが、科学文献全体の門番だとみなされはじめたのは、さらに後の時代のことだ。(152ページ)

両極性の所在 笠松「ホッブズとスピノザにおける神学批判の戦略」

 ホッブズスピノザによる神学批判を扱った論考を読む。非常に明晰に書かれており、学ぶところが多い。以下ではまず論文の内容を要約し、それから疑問点を挙げる。

 ホッブズによれば、現在のキリスト教国家のうちには、霊的な暗黒の要因が4つある。そのうちの一つは、空虚なアリストテレスの哲学がキリスト教に混入したことである。それにより、スコラ学者たちが意味をなさない神学の学説を大量に大学で生み出すことになった。そのような学説は、ローマ法王の支配にお墨付きを与えられるとともに、法王の権力を維持することに貢献している。このような霊的な暗黒を取り除くためには、これまで神学で論じられてきた事柄を、空虚な哲学から切り離さなくてはならない。ではこの時、神学が論じてきた聖書の問題はどう論じられるようになるのか。

 ホッブズは、聖書の問題は法の問題として論じられなければならないと主張する。たとえば伝統的には「聖書の権威は何に由来するのか」という問いが立てられ、それにひとまず「聖書が神の言葉だからである」と答えが与えられてきた。その上でさらに「いかにしてわれわれは聖書の言葉が神の言葉であると知るのか」、および「なぜわれわれは聖書が神の言葉であると信じるのか」という問いが立てられてきた。しかし、ホッブズによれば、第一の問いには、預言者でなければ答えられず、私たちは預言者ではないので答えられない。第二の問いへの答えは人によって様々であるため、統一的な答えは得られない。したがって、「聖書の権威は何に由来するのか」という問いは不適切である。

 ホッブズは適切な問いは、「いかなる権威によって聖書が法とされるのか」というものだとする。こうすることで問題は聖書が神の言葉という性質を持つかどうかではなく、誰が聖書を解釈し法として提示することができるかというものになる。ここから問いは、キリスト教国の主権者である王や合議体は、聖書を解釈し法を定める権威を持つのか、それともそのような権威はローマ・カトリック教会が持つのか、というものになる。こうして「従来神学が論じてきた『聖書の権威は何に由来するのか』という問いは、完全に政治学の問いへと変換される」(76ページ)。

 スピノザは、人々や神学者が、自分に他人を従わせるために解釈していることを批判する。このようなことが起こるのは、聖書に何か深遠な真理が書かれていると思われているからである。しかしスピノザによれば、聖書は真理を教えない。聖書は「神に服従せよ」と命じるだけである。スピノザはこの命令を下す啓示を、神の言葉と呼び、それを神学とも呼ぶ。これにより神学からは、神に関する学問的な知はすべて取り除かれ、そのような知は哲学に属するとされる。「したがって、スピノザ神学者批判は、伝統的な神学の枠組みそのものの転覆も含んでいるのである」(80ページ)。

 スピノザは、神への服従をもたらす信仰に、2つの効用があるとする。第一の効用は、預言者が神の正義と慈愛を教えることで、人間がそれらを自らの生活指針として模倣できるということである。第二の効用は、啓示からただ神に服従するだけで救いがもたらされると教えられることで、誰にでも救いは起こりうるのだという慰めを多くの人々が得られるということである。

 以上から著者は次のように結論する。

ホッブズスピノザにおけるこうした神学批判の戦略には、少なくともその理論上においては、福岡が描き出した聖書解釈の両極性よりもはるかに強い両極性を見て取ることができる。というのも、ホッブズが神学の領分を政治学の領分へと移し替えたのに対して、スピノザは神学そのものの枠組みを再構築しているからである。(83–84ページ)

 この結論で「両極性」という言葉が使われているポイントが、私には分からなかった。論文からは、ホッブズスピノザの神学批判が違うものだということは理解できる。しかしそれを違いがあるというだけでなく、両極性があると表現する理由は何なのだろうか。両極性というからには、何か同一の軸があり、その軸の上で対立しているという理解があるのだろう。しかし本論文にはその同一の軸が何であるのかが書かれていない。もしかするとそれは、ホッブズスピノザがともに神学を学知と見なしていないという点にあるのかもしれない(ホッブズが神学を学知と見なしていないことは注3に書かれている)。この点が明確にされていないため、なぜこの論文がホッブズスピノザをともに取り上げなければならなかったのかも私には分からなかった。

 もう一つこの論文で気になったのは、スピノザ『神学政治論』の史料としての扱いである。まず、次の箇所の訳文に疑問を覚える。

実際、単純な服従が救いへの道であることを、われわれは自然の光によっては知得しえず、むしろ啓示のみが、理性によってはわれわれが達することができない神の個別的な恩寵から生じたことを教えるのだから、そのことから聖書が死すべき者どもにきわめて大きな慰め(solamen)をもたらすということが帰結する。実にすべての人が無条件に服従することができるのであり、理性の指図のみから徳の習性を獲得する人は、全人類と比べれば、きわめて少数に限られる。したがって、もしわれわれがこの聖書の証言をもっていなかったならば、われわれはほぼすべての人の救いについて疑っていたことだろう。(TTP 15, §10)(81–82ページ)

 第一に、この箇所の「むしろ啓示のみが、理性によってはわれわれが達することができない神の個別的な恩寵から生じたことを教える」という訳に疑問がある。これはラテン語では、"sed sola revelatio doceat id ex singulari Dei gratia, quam ratione assequi non possumus, fieri" である。これは「むしろ啓示だけが、私たちが理性によっては理解できない神の個別的な恩寵からそれが生じるということを教える」と訳せる。ここでの「それ」は、おそらく「人が神への単純な服従から救われる」ということだろう。また、神の個別的な恩寵というのは神学用語であり、万人に与えられている普遍的な恩寵と区別され、神に選ばれた者だけに与えられる恩寵を指す。ここでは、神に服従した者にだけ与えられる恩寵を指すのだと思われる。以上から、この箇所は「神に単純に服従した者には、神から個別的に恩寵が与えられ、その恩寵によってその者に救いがもたらされるということは、啓示だけが教える。この救いをもたらす個別的な恩寵がどんなものであるかは理性によっては理解できないからだ」ということを述べていると分かる。

 続く「そのことから聖書が死すべき者どもにきわめて大きな慰め(solamen)をもたらすということが帰結する」の訳文にも疑問がある。ここはラテン語では、"hinc sequitur Scripturam magnum admodum solamen mortalibus attulisse"である。attulisseは完了形であるため、「もたらす」ではなく「もたらした」としなければならないのではないだろうか。ただしここに関しては、畠中訳は「聖書は生きとし生ける者にとって極めて大きな慰めをもたらすといふ結論になる」(下巻162ページ)とし、吉田訳は「したがって聖書は、死すべき定めの人間たちにきわめて大きな慰めをもたらしてくれることになる」(下巻147ページ)とし、両方とも現在形で訳している。何かあえて現在形で訳す理由があるのかもしれない。なおCurleyの英語訳では、"It follows that Scripture has brought great comfort to mortals"であり(Collected Works of Spinoza, 2:281)、PUF版のフランス語訳では"il en résulte que l'Ecriture a apporté aux mortels un grand soulagement"である(PUF版『神学政治論』503ページ)。

 引用に関してもう一つ気になったのは、『神学政治論』ではまだ文が続いているのに、本論文ではあたかもそこで文が切れているかのように引用されている場合があることである。たとえば、次の箇所である。

思うに、われわれの見るところ、神学者たちは自らの仮想や意見をいかにして聖なる言葉からもぎ取るのか、いかにして神の権威によってそれらを強化するのかを主に気にかけており、ためらうことなく大胆に、聖書ないし聖霊の精神を解釈している。(TTP 7, §1)(77ページ)

 「神学者たちは…主に気にかけており」は、"theologos sollicitos plerumque fuisse"なので、訳文でも完了形のニュアンスを出した方がいいのではないだろうか。ただし、ここでも畠中訳、吉田訳、PUF版訳が現在形で訳している(Curley訳は完了形)。何かスピノザの完了形の使い方には特殊な事情があるのかもしれない。それはともかくとして、この引用の「解釈している」は、『神学政治論』では文末に来ているのではない。ここはまだ文の途中であり、その後もさらに文章が続いている。同じことは、79ページにある『神学政治論』第15章第6節の引用についても言える。これらの場合、「後略」などと書いて、引用に省略があることを明記する必要がある。

デカルトの書簡からのダッシュの省略 津崎良典「真理とは何か?」

 

  • 津崎良典「真理とは何か?:神による永遠真理の自由な創造に関するデカルトの理説をめぐって」『現代思想』vol. 52-1, 2024年、203-212ページ。

 デカルトの永遠真理創造説についての論文を読む。一箇所非常に気になる箇所があったので、記録として残しておく。

 205ページには以下のように、デカルトメルセンヌ宛書簡(1630年4月15日)が引用されている。

人はあなたに、もし神がそれらの〔永遠的とあなたが呼ぶ数学的〕真理を設定したのなら、神はそれらを、ちょうど王が自分の法に対して行うように、変えることもできるであろう、と言うでしょう。それに対しては、然り、もし神の意志が変えることができるなら、と答えなければなりません。―しかし、私はそれらの真理を永遠で不変のものと理解します。―そして私はといえば、神についても同様だと判断するのです。しかし、神の意志は自由です。

 この引用では、「そして私はといえば、神についても同様だと判断するのです。しかし、神の意志は自由です」はひと続きの文となっている。しかし実際には、「しかし、神の意志は自由です」の前には「―」が入っている。このダッシュがこの引用では省かれている。

 『デカルト全書簡集』第1巻135-136ページの訳では、ダッシュが訳出されている。

神がこれらの真理を確立したのであれば、王が自らの法を変えるように神は真理を変えうると、言う人がいるかもしれません。神の意志が変わりうるのであれば、それに対して肯定で答えなければなりません。―しかし、私は真理を永遠で不変なものと理解しております。―そして神についても同じだと私は考えております。―しかし、神の意志は自由です。―そうです、しかし、神の力は把握不可能です。そして一般的に、神はわれわれの把握することならすべてなしうるとわれわれは断言できます。しかし、われわれの把握できないことを神がなしえないというわけではありません。というのも、われわれの想像力が神の力と同じだけの広がりをもっていると考えることは、畏れ多いからです。

 ここからは、デカルトがここで次のような仮想的な対話を展開していることが分かる。Aが対話相手で、Bがデカルトである。

A「神がこれらの真理を確立したのであれば、王が自らの法を変えるように神は真理を変えうる」

B「神の意志が変わりうるのであれば、それに対して肯定で答えなければなりません」

A「しかし、私は真理を永遠で不変なものと理解しております」

B「そして神についても同じだと私は考えております」

A「しかし、神の意志は自由です」

B「そうです、しかし、神の力は把握不可能です。そして一般的に、神はわれわれの把握することならすべてなしうるとわれわれは断言できます。しかし、われわれの把握できないことを神がなしえないというわけではありません。というのも、われわれの想像力が神の力と同じだけの広がりをもっていると考えることは、畏れ多いからです」

 このような対話の展開を見えなくさせる点で、ダッシュの省略はデカルトの文書の理解を妨げている。

 実際、「真理とは何か?」論文は、書簡のこの部分の展開を不適切な形で解説している。208ページには次のようにある。

私たち人間は、神は数学や論理学における真理を変更しないものと「判断する」とデカルトは述べていた。しかしこの〈判断〉は、神はそうあって欲しいという願望の裏返しではないのか。神はやはり、その「絶対的な力能」をもってすれば、人間が確信している数学や論理学の真理を、さらにはそれを構成要素とする自然法則を変えるかもしれないし、実際のところ、人間が理解しているのとは異なる事態をすでに成立させているかもしれない。実際、デカルトは1630年4月15日付のメルセンヌ宛書簡において、「判断するのです」云々と述べた舌の根も乾かぬうちに、「しかし神の意志は自由です」と付け加えていたではないか。

 確かにデカルトは「判断するのです」の直後に「しかし神の意志は自由です」と付け加えている。しかしこの「しかし神の意志は自由です」というのは、対話相手による反論である。『デカルト全書簡集』の訳を使って解説するなら、直前でB(デカルト)が「そして神についても同じだと私は考えております」と述べている。これは、「そして神についても永遠で不変なものと私は考えております」ということである。この発言にたいしてAが、「しかし、神の意志は自由です」と反論している。これは、「神の意志は自由なのだから、神の意志は不変ではない」ということである。さらにこのAの反論に対して、B(デカルト)は「そうです、しかし、神の力は把握不可能です……」と返している。ここの解釈は私にはうまくできないものの、「神が永遠で不変である」というのと「神の意志は自由である」ということが両立可能であることの根拠として、「神の力は把握不可能です」という主張が導入されているように読める。

 このような対話の進行の一部として現れる「しかし神の意志は自由です」について、「「判断するのです」云々と述べた舌の根も乾かぬうちに、「しかし神の意志は自由です」と付け加えていたではないか」と解説するのは、不適切であるように思われる。ましてこの付け加えから、神が「人間が理解しているのとは異なる事態をすでに成立させているかもしれない」という可能性を認めることはできない。むしろ、デカルトの書簡からは、神の意志が自由であるということと、神が不変であることは両立するのだから、神が自由であるからといって神が「人間が理解しているのとは異なる事態をすでに成立させているかもしれない」と危惧する必要はない、という正反対の主張が読み取れる。

ユトレヒト紛争の顛末 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 29–33.

 基本書の続きを読む。ユトレヒト紛争を扱った最後の箇所である。

 デカルトは『ヴォエティウス宛書簡』をユトレヒト市に送った。その結果、彼の期待とは反対に状況は悪化し、デカルトへの訴訟が提起されてしまう。デカルトはフランス大使に働きかけ、訴訟を取りやめさせることになんとか成功した。

 デカルトはさらに、グローニンゲン大学に対して、同大学の教授であるスホーキウスを訴えた。この時のグローニンゲン大学の学長は、ヴォエティウスと対立していたマレシウスであり、またスホーキウスのヴォエティウスに対する感情は悪化していた。このためもあってか、大学はデカルトを満足させる判決を下すことになる。1645年4月10日付けの判決で大学は、『驚くべき方法』の本当の著者はヴォエティウスであるというスホーキウスの証言を採用した。ここから、『驚くべき方法』の著者はスホーキウスなのか、ヴォエティウスなのかという争いが継続することになる。

 その争いのなかで明らかとなったのは、『驚くべき方法』がどのように書かれたかであった。スホーキウスによる詳細な証言によると、まずデカルトの『ディネ師宛書簡』の詳細な検討を含む序文と、デカルトを異端者ヴァニーニになぞらえた第四節は、着想はヴォエティウスによるものの、スホーキウスによって書かれたものであった。また第二節と第三節は完全にスホーキウスの手になるものである。第一節は著者が判然としない。それはスホーキウスの考えを反映しているのであるが、最終的にヴォエティウスの同意を経ていると考えられる。したがって、『驚くべき方法』をスホーキウスの著作と見なすことに問題はない。ただし、その執筆にヴォエティウスガ深く関わっていたのは事実である。

 『驚くべき方法』を巡る論争は、ユトレヒトでのヴォエティウスの立場を弱めることになった。そもそも市は1642年3月15日の決定で、レギウスに医学だけを教えるように命じたことにより問題は解決したと考えていた。1643年の「法律」にはデカルト主義者への攻撃が含まれていたものの[この「法律」は何?]、その後も市は1652年にデカルト主義者のデ・ブリュインをを教授に任命することになる。1642年に始まったデカルト主義への弾圧は、表面的なもの以上にはならなかったのである。

『驚くべき方法』と『ヴォエティウス宛書簡』 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 19–29.

 基本書を読み進める。ここで著者は、ユトレヒト紛争の第2段階として、スホーキウスの『驚くべき方法』とデカルトの『ヴォエティウス宛書簡』を検討している。

 ユトレヒトでの論争は、デカルトが『省察』の第2版を1642年の春に出版したことによって新たな段階に入った。デカルトは第2版に『ディネ師宛書簡』を収録した。彼はその後半部でヴォエティウスを激しく攻撃した。デカルトによれば、ヴォエティウスはデカルトの議論に反論できないから、彼の哲学を禁止する方向に動いたのだという。デカルトはまた、ユトレヒト大学がデカルト哲学を禁じた決定に関しても(それを起草したのはもっぱらヴォエティウスだと見なしつつ)批判した。決定では、デカルトの哲学は古代の哲学の軽視を招くとされており、この点でとりわけ神学にとって有害であるとされていた。しかしデカルトに言わせれば、彼の哲学はすべての理性的な存在者が認める原理に基づいている以上、一般的に言われている「古代哲学」よりもなお古いと見なせるのだった。

 ヴォエティウスは直ちに反撃した。彼の要請により大学は『経緯陳述』Narratio Historicaと題された文書を作成し、そこでレギウスへのヴォエティウスの対応を擁護した。またヴォエティウスは教え子であり、グローニンゲン大学の哲学教授を務めている、マルティン・スホーキウスにデカルトを攻撃する著作を執筆するように頼んだ。スホーキウスは1643年に『驚くべき方法』を出版した。そこでスホーキウスは、過去の学説も自らの感覚も信じないデカルトの方法は、狂人や熱狂主義者が取るものと同じだと批判した。またスホーキウスは、デカルトは「間接的な無神論者」だというヴォエティウスの従前の批判(これはヴォエティウスが1639年に行った「無神論について」という討論に見られる)も継承した。スホーキウスによれば、デカルトによる神の存在証明は堅固ではない。またデカルトの証明は、神の観念を私たちが有しているという前提から出発するものの、そもそも無神論者は自らが神の観念を有していないふりをしているものである。以上の2点からして、デカルトの証明は無神論者に対して無力である。

 デカルトは『驚くべき方法』の校正刷りをいち早く入手し、反論を1643年の4月、ないしは5月に『ヴォエティウス宛書簡』として出版した。デカルトはヴォエティウスを『驚くべき方法』の実質的な著者とみなした。デカルトの議論は主としてヴォエティウスという人物への攻撃になっている。たとえば彼は、ヴォエティウスとサミュエル・マレシウスの論争を取り上げて、論争好きなヴォエティウスは、同じく正統派に属するマレシウスにまで攻撃をするのだから、デカルトがターゲットになったとしても、デカルトに責めるべきところがあるわけではないと主張している。またデカルトは、ヴォエティウスのような説教師は、そのような立場を利用して、他人や世俗権力を批判するべきではないとも主張している(これは、実質的にはレモンストラント派の主張と同一ではあるものの、だからといってデカルトがレモンストラント派に与していたと見なすべきではない)。