時計のような人体、時計のような政体 Neumann, "Machina Machinarum" #1

  • Hanns-Peter Neumann, "Machina Machinarum. Die Uhr als Begriff und Metapher zwischen 1450 und 1750," Early Science and Medicine 15 (2010): 122–191, here 121–133.

 初期近代における時計の比喩の使用を調べた論文を読みはじめる。時計の特徴として、自律的に、規則正しく動くというものがある。この特徴への言及はすでに15世紀後半に見られる(Tortelli, Poliziano, Polydorus Virgilius)。これらの文献で時計が machina と呼ばれていることから、machina の意味合いが変化していたことが見てとれる。machinaという言葉は、中世では静的な構造体(典型的には建築物)を指していた。それが、動的な構造体を指すものに変化している。また、時計の自律性(sua sponteに動くとされる)は、あたかも生きているようだと語られた。時計と魂をもつ生き物との類比がすでに現れていたことが分かる。また、時計の規則性は、天体の運行の大いなる規則性を模倣する能力を、機械工が備えているという意味にも解釈された。

 

 時計をめぐっては、それを人体と政体に結びつけることが行われた。正確に時を刻む時計は、定期的にメンテナンスされなければならないように、身体を健康に保つためには養生が必要である。また、しっかりと統治された都市は、必然的に街の時計も正確に時を刻むようにメンテナンスがなされているという考えもみられた。

占星術と人間中心主義 Ernst, "Atomes, providence, signes célestes"

  • Germana Ernst, "Atomes, providence, signes célestes: le dialogue épistolaire entre Campanella et Gassendi," in Gassendi et la modernité, ed. Sylvie Taussig (Turnhout: Brepols, 2008), 61–82.

 カンパネッラの専門家による、ガッサンディとカンパネッラのあいだの論争を扱った優れた論文を読む。主な史料として、ガッサンディとカンパネッラが1632年から33年のあいだに交わした書簡を用いている。

 カンパネッラによるガッサンディの批判は2点である。一つは、ガッサンディが支持するエピクロス哲学に対するものだ。カンパネッラによれば、エピクロス哲学はすべてが原子の偶然の衝突によって生じると考える点で間違っている。この世界は、そのように偶然に生じるものではない。よって理性を備えた第一の原因を想定する必要がある。これに答えてガッサンディは、この点ではエピクロスが誤っていたと認める。エピクロスは、星々を神とするストア派に対抗するために行き過ぎ、神による世界の支配自体を否定する過ちを犯してしまったという。

 カンパネッラのもう一つの批判は、ガッサンディによる占星術批判に対するものであった。ガッサンディは、幻日について、単なる自然現象であり、これを人間に関する出来事の予兆としてとらえるべきではないと考えていた。そのような考えは、すべてを自己中心的に解釈する人間の傾向の産物である。また、もし神が自然現象を介して、人間にメッセージを送るならば、神は必ずそれがメッセージであると人間に分かるようにするはずだという。

 これにたいしてカンパネッラは、ある現象を自然現象として説明できるからといって、そこから神がその現象に意味をこめなかったとは結論できないと反論する。この反論は、前述のエピクロス哲学批判と密接に関係している。批判のなかでカンパネッラは、意図をもって世界を支配する原因を認めなければならないとしていた。そうであるなら、この原因の意図を幻日のような自然現象に認めていけないわけがあろうか。これを認めないというのは、人間に直ちに明らかではないものの存在を認めない傲慢である。

 ガッサンディもカンパネッラも、人間の傲慢をいましめていた。しかし、そこから彼らは対照的な結論を引き出す。ガッサンディは、人間中心主義のゆえに占星術を否定した。カンパネッラは、占星術の否定こそがすべてを人間の尺度で測る過ちであると考えた。

ガッサンディ vs. フラッド Cafiero, "Fludd e la polemica con Gassendi"

  • Luca Cafiero, "Robert Fludd e la polemica con Gassendi," Rivista Critica di Storia della Filosofia 20 (1965): 3–15.

 ガッサンディによるフラッド批判を扱った論文を読む。対象としているのは、ガッサンディが1630年に出版したフラッド批判書である。著者によれば、ガッサンディ研究には大きな特徴がある。それはガッサンディの哲学を一つの体系として理解することである。これは扱う対象を『集成』に限定させる。同時に、『集成』に現れている考えに、一つの大きな特徴を与えることになる。代表的なものが1889年に出されたThomasの研究であり、それによるとガッサンディの体系というのは、エピクロスの哲学をキリスト教の枠組みに収めようとしたものとして理解できるという。逆にPintardの研究のように、ガッサンディの哲学から正統的でないと考えられる部分だけを選び出してきて注目するという研究も生まれた。

 このような観点からは、1630年代のフラッド批判書というのは、軽視されることになる。しかし、この本は注目する価値がある。というのも、そこには、いわば生成途上のガッサンディの哲学が現れているからである。ガッサンディはフラッドのように象徴だけに基づいて自然を理解するのは間違っていると考えていた。そうではなく感覚からデータを引き出し、それを量的に扱わなければならないと考えていた。そうやって得られた結論も、絶対の確実性は持たず、あくまで蓋然的な結論として理解される(なお、ガッサンディは、ケプラーも世界の調和についてあくまで仮説として述べたと断定している)。このような科学的な志向がすでに見られる一方で、フラッド批判書にはエピクロス哲学についての言及はほとんどない。ここから分かるのは、ガッサンディの哲学の発展にとっては、まず科学的な志向があり、そこにエピクロス哲学の導入が来たということである。これは、宗教的な枠組みのなかに、エピクロス主義を修正を施した上で導入したという、Rochotの見解とは相容れない。

 だとするとむしろ問題は、経験から仮説を引き出すにとどまろうとする経験主義・実験科学的な志向と、宇宙論まで含む壮大な体系としての原子論が、どうしてガッサンディのなかで両立し得たかということになるだろうと、著者は結んでいる。

 著者が考えるような、「神学的な枠組みがあってエピクロス主義がそこにくる」と「科学的な枠組みがあってエピクロス主義がそこにくる」といった区別が成り立つかどうかは疑問である。科学の成果と宗教の前提が両方とも保持されなければならないというのが、ガッサンディの出発点だろう。

 著者が末尾で述べているような、経験主義の枠内にとどまろうという考え方と、エピクロス主義の導入がもたらす包括的な体系の構築がどう両立するのかという問題は、まだガッサンディ研究のなかでうまく答えられていないように思える。ただ、ガッサンディは蓋然的な仮説という言葉を、現代の私たちが想定するよりもはるかに広い(ゆるい?)意味で使っているようには思える。だから、体系の構築も、経験主義の仮説のうちに一応入る。

ガッサンディと占星術 Sribnai, Pierre Gassendi

  • Judith Sribnai, Pierre Gassendi: le voyage vers la sagesse (1592–1655) (Montréal : Les Presses de l'Université de Montréal, 2017), 196–201.

 ガッサンディに関する最新のモノグラフから、彼の占星術批判を扱った部分を読む。史料として、1645年のヴァロア宛て書簡、1650年出版のモラン宛て書簡、そして1654年に出版された『日食に関する見解』を用いている。後の二つはフランス語で、最初の一つはラテン語からTaussigがフランス語に訳したものを使っている。どうやら著者はラテン語を読まないようだ。

 重要なのは、1654年に出版した著作『日食に関する見解』の分析である。この本によるとまず日食は通常の自然現象なので、それは凶事を予告したりするような意味はない。この点で判断占星術は間違っている。ではなぜ人は日食のような現象に意味を読み込んでしまうかというと、人間はなにかにつけ自分を中心に考えるので、どんな現象でもなにか自分にとっての意味があるのではないかと考えるからだという。このようにガッサンディ占星術の根には人間中心主義があると考えて、それを批判していた。

ガッサンディとコペルニクス説 Bloch, La philosophie de Gassendi

  • La philosophie de Gassendi: nominalisme, matérialisme, et métaphysique (La Haye:  Nijhoff, 1971), 326-334.

 ガッサンディに関する基本書から、彼のコペルニクス説への対応を調べた箇所を読む。恐るべきことに、著書はガッサンディが残した文書のほぼすべてを読みこんでいる。全集の全体はいうに及ばず、ペレスクとの書簡、そして草稿にまで目を通している。

 ガッサンディはキャリアの初期から、一貫して太陽中心説を支持していた。そのことは、彼が1632年2月26日にペレスクに宛てた書簡で、「コペルニクスの見解にしたがって、私は太陽が世界の中心に位置していると考えています」と書いていることからも伺える。そのため、彼は力を尽くして、コペルニクス説の確からしさを説き、それへの反論を逐一斥けていった。しかしコペルニクス説を確からしいとはいえても、それが真理であるとは、ガッサンディは断定できなかった。それは聖書に反するという疑いがあり、実際に、支持者であるガリレオは断罪されていたからである。ガッサンディガリレオに対する断罪の正統性と重要性を可能な限り低く見積もろうとはしているものの、それを無視することは不可能であった。

 最終的に『集成』のなかでは、コペルニクスの見解は確からしいものの、確実性をもって証明されてはいない。そのため、別の仮説を取ることも可能である。特にコペルニクスの仮説に問題を感じる人は、ティコの仮説を採用すればいいだろう、という結論が示されている。

 しかし、この『集成』での最終的な見解は、執筆の最終段階で挿入されたものであった。実際に、1642年に書かれた『エピクロスの生涯と学説』の草稿では、ティコの学説は言及すらされていない。また、1642年から43年に書かれた同書の草稿では、ティコの学説は短く言及されているものの、それを支持することが勧められてはいない。同じことは、49年の『註釈』にもいえる。ここから、ディコの学説を勧めることは、信仰が説く地球中心説と、理性が説く太陽中心説の併存を認め、二重真理説に陥ってしまうことを避けようとするガッサンディの苦肉の策であったと、著者は結論づけている。

 この主題に関していえることは、ほぼこの内容で尽きているように思われる。それほどに決定的な研究であるという印象を与える。

天文学に従事するガッサンディ Humbert, L'astronomie en France, ch. 4

  • Pierre Humbert, L'astronomie en France au dix-septième siècle (Paris: Université, 1952), 78–107.

  必要があって、基本文献を10数年ぶりに読み返す。哲学者・文献学者として知られるガッサンディを、天文学者として評価するとしたら、どう評価できるかを問うた章である。

 史料としてガッサンディ天文学関係の著作をほぼ網羅的に見ている。とりわけ著者が重視するのが、全集の第4巻に収められたガッサンディの天文日誌である。ここには400ページ以上に渡って、ガッサンディの日々の観測記録が付けられている。この他にも、彼が友人・パトロンであるペレスクと交わした書簡や、その他各地の天文学者たちと情報交換のためにやり取りした書簡が重要な史料となる。これらの記録により、17世紀の(ケプラーやティコ・ブラーエのようなプロ中のプロとは違う)いわばアマチュア天文学者たちが、日々どのような活動をしていたかが分かるという。この他にも、ガッサンディが観測成果を報告するために執筆したパンフレットサイズの様々な著作が参照されている。

 天文日誌と書簡という史料を駆使した結果、ここには哲学史科学史で見られるガッサンディ研究とは異なる姿が見られる。ガッサンディは星を見るために深夜まで起きている。星を見るために山に登る(しかし、しばしば天気が悪くて無駄骨となる)。星を見ながら、正確な時間を知るために、階下の部屋に助手を待機させておいて、足を踏み鳴らして知らせた時点での時刻を記録させる(もう天気が悪いからいいかな、と助手が勝手に休憩に入っていて激怒したりする)。精密な月の地図を描くために、腕のいい絵師をペレスクと共に探す。また、天文日誌に付けられた毎日の気候の記録からは、最近ほとんど雨が降らないだとか、寒すぎて人が死んでいっているだとか、雷に打たれてこの前何人も死んだだとか、その手の通常の歴史記述ではあまり拾われないような事実が浮かび上がってくる。結論としては、ガッサンディ天文学上の重要な発見は基本的にしていないけれど、長年に渡って精密な観測をして、それを残してくれているのは非常に価値があるということになっている。

 この研究の最大の問題は、ドキュメンテーションの貧弱さである。というより、注がないために、拾われている情報が全集なりペレスク宛の書簡のどこから引かれているかが分からなくなってしまっている。

 ガッサンディ天文学上の(理論ではなく)活動を見た研究としては、依然としてこの研究が最も詳細なのではないかと思う。近年の科学史からはこの手の史料を扱う能力が失われてきているため、この研究が更新されることは当面ないかもしれない。

顔を持たぬために歴史を書くこと 慎改『ミシェル・フーコー』

 

 著者は、フーコーの著作、講義録の見事な翻訳と、明晰な解説をすでにいくつも世に送り出している。本書は、その著者による待望のフーコー入門書である。入門書であるのだから、フーコーの主要著作の内容紹介はもちろんなされる(まだ邦訳のない『肉の告白』の解説もなされる)。しかし、それと並んで本書が重視するのは、著作と著作のあいだにあるつながりである。フーコーは次々と主題を変える。その変化をどう説明すればいいのか。

 著者によれば、最初期のフーコーの問題意識は、近代社会のなかで失われた人間性をどう取り戻すか、というものだった。しかし、まもなくこの問題意識が問いの対象となる。なぜ失われたものを、見えなくなってしまったものを私たちは求めるようになったのか。フーコーは歴史研究により、そもそも今の私たち・失われた私たちとか、見えているもの・見えないものという区別自体が、歴史のある時点で出現したものだと考えるようになる。この区別の出現は、18世紀の学問の多くの領域で認められる。その背後には、人間を個人として取り出し、その(表に現れる行動というより、その行動を引き起こしている内なる)本性を見極めることで、統治を円滑に進めようという新しいタイプの権力の出現があった。

 個々人のあり方を特定しなければならないという任務の起源は、古代に求められるようになる。そこで主題となるのが性である。古代のギリシア、ローマでは、性に関して自己を律しなければならないという考え方が見られる。しかし、律するのはあくまで自律的な人間であるためである。これに対して、修道制の発達以降のキリスト教のうちでは、自己への強い不信感が見られる。堕落によって、私たちのうちには悪しき情欲がやどってしまった。この情欲の働きを、告白などの実践によって明らかにしなければならない。こうして、ある人の欲望を丹念に調べることで、その人がどういう人であるかを特定しようという活動がはじまる。このようなギリシア、ローマを経てキリスト教へという経緯は、最晩年のフーコーによって、性の問題に限らない、およそ自分と真理(ここには、なすべきことという規範も含まれる)の関係をめぐる歴史として語り直されることになった。

 本書を読むと、フーコーの様々な見解のあいだにつながりがあることが分かる。自分の関心がある領域について、彼の著作をつまみ食いし、その偶像破壊的なテーゼに衝撃を受けていたといったタイプの読者(私のような読者)にとっては、断片的な知識に文脈が与えられるという発見がある。ただ、フーコーをまったく読んだことがない読者に、本書がどれほど理解されるかは、私にはよく分からない。著者はそのような読者を念頭において書いたというものの、著作間のつながりをつけるという力点の置き方からして、どうしてもすでにフーコーを読んだことがある人向けになっているところがあると思う。

 著者の他の書物と同じく、本書もまた難解なフーコーの著述に明晰な解説を与えることに成功している。これは皮肉なことなのかもしれないが、レトリックをはぎ取った形でフーコーの主張が取り出されたことで、その疑わしさが際立つ箇所がある。例として、『言葉と物』を解説した次の一節を見てみよう。

事物の存在を表象の外部に想定することがなかった古典主義時代の思考にとって、事物と表象とがどこでどのように結びつくのかという問いは無用のものであった。つまり、その思考にとっては、表象を自らのために構成する者としての人間は不在であったということだ。そしてそのように表象を基礎づける者の存在が問題にならない以上、そうした存在に固有の有限性も問題とはなりえなかった。有限な存在者であるという事実は、無限ではないということ以上の意味を持ちえなかったのである(71ページ)。

17世紀の哲学者が、事物の存在を表象の外部に想定しないというのは衝撃的だ。熱さの表象と似たものが事物の側にないというのは、ガリレオデカルトにとって重要なテーゼではなかったのだろうか。人間という「存在に固有の有限性も問題とはなりえなかった」というのも信じがたい。『省察』の「第三反論」のなかでホッブズは、その先がないような端っこを私たちが考えられないというのが、有限な私たちにとっての無限の意味だと言っていないだろうか(『デカルト著作集 第2巻』白水社、2001年、226ページ)。ロックの「私たちの知性が取り扱うのに適した対象と適さない対象とをみる必要がある」という問題意識は、まさに「表象を自らのために構成する者としての人間」を問題にしてはいないのだろうか(『人間知性論』大槻春彦訳、岩波文庫、第1巻、1972年、19ページ)。ホッブズやロックごときは、フーコーの歴史記述からすれば些末なのかもしれない。しかしヒュームはどうなるのだろう。ヒュームはカントにとって決定的な意味を持っており、そしてカントはフーコーの記述の中核に位置している。

 このような疑わしい主張をフーコーが行ったのは、人間の人間性が問題になったのが、18世紀になってからだというテーゼを守りたかったからだろう。そこに固執したのは、自分がかつて持っていた問題意識自体が、近代の入り口で一挙に構成されたことにしたかったからだろう。それにより、自分のあり方が明確に理解でき、それによってかつての自分(と自分が生きる時代)から距離を取ることができる。この意味で、フーコーは真に「自己から抜け出すための哲学」を実践していた。固定した「顔を持たぬために書くこと」はしかし、彼の歴史研究を歪めてもいた。