Sherlockの三位一体論とその批判 McCall and Stanglin, After Arminius

  • McCall and Stanglin, After Arminius, 74–81.

 17世紀末のイングランドでの三位一体を巡る論争についての記述を読む。イングランドアルミニウス主義者たちは、伝統的な三位一体の教義の理解を改めようとしていたと考えられることが多い。しかし状況は複雑であり、アルミニウス主義者の中には伝統的な見解を保持しようとした者たちもいた。そのような者の中には、伝統的な教義を新たな哲学の用語を使って守ろうとした者もいたし、より古くからのやり方で守ろうとしたものもいた。このことは17世紀の末に起こり、18世紀の最初数十年の間続いた、三位一体を巡る論争を検討すれば分かる。

 アルミニウス主義者のWilliam Sherlockは、Stephen Nyeらによる三位一体の教義への攻撃に対抗するために、新たな形而上学に訴えてその教義を擁護した者の一人である。SherlockはNyeが指摘するような三位一体の教義がはらむ矛盾というのは見せかけのものに過ぎないと考えた。確かにその教義は神秘ではあるものの、そこに不合理は含まれていない。

 Sherlockは位格の三位相互内在性(perichoresis, circumincession)を、次のように説明した。無限の精神(infinite mind)である神のうちには、三つの自己意識がある。しかしこれらの自己意識はまったく同じ意識の内容を共有しているので、その本質は同じである。ここから位格が3つ、本質が1つが帰結する。彼がデカルト的な実体とペルソナの理解をしていたことは明らかである(これと彼がデカルトを読んでそこから影響を受けたかは別問題である)。

 Sherlockに対しては、ユニタリアンからも伝統的な改革派神学の側からも批判が向けられた。ユニタリアンのNyeは、Sherlockの立論には矛盾が含まれていると批判した。一方伝統的な改革派神学を奉じるRobert Southは、Sherlockの学説の出処をデカルトの哲学と断定した上で、もしSherlockのように自己意識が位格の区別の結果ではなく、原因であるとすると、ネストリウス主義、ないしは養子論が帰結すると批判した[なぜそうなるのかはよく分からない]。論争は続き、1690年代の半ばにはオックスフォード大学の大学副総長が、Sherlockの立場を否定し、論争を注意するように求めたほどで合った。しかし論争は終わらなかった。

レモンストラント派と三位一体論 McCall and Stanglin, After Arminius

  • McCall and Stanglin, After Arminius, 52–55.

 レモンストラント派が、どうして反三位一体論の嫌疑をかけられたかについての解説を読む。アルミニウスは1605年に、子を父に従属させているとして、批判されていた。アルミニウスの神学への支持を表明していたエピスコピウスも、1616年ライデン大学の神学教授であるフェストゥス・ホミウスによって、三位一体の教義を否定するソッツィーニ主義者として批判された。エピスコピウスとホミウスは会談を持ち、ホミウスがエピスコピウスの正統性を認めたことで、市と大学は彼を問題視しないことにした。

 しかしそれ以後も、レモンストラント派に対してソッツィーニ主義に共鳴して、三位一体の教義について異端的教えを説いているという嫌疑はかけられ続けた。理由の一つはレモンストラント派が、聖書に現れない用語を使いたがらなかったことにある。エピスコピウスは中世スコラ学に由来する三位一体についての専門用語を使わないで済ませようとした。それでも彼は、hypostasisや、persona、subsistentiaといった用語の使用は認めていた。De Courcellesはhypostasis, consubstantialis、さらには三位一体や本質といった言葉ですら使わないようにしようとした。この姿勢は敵対者たちから、三位一体の教義の否定として非難された。もちろんレモンストラント派からすれば、テクニカルな術語の使用を避けることと、三位一体を否定することはまったく別の話であった。彼らは救いに必要な教えはすべて聖書に明確に書かれているのであり、聖書にない術語を持ち込むことはかえって教会内に不和を招くと考えていた。

 第二に、レモンストラント派は父と子と聖霊のあいだに明確な順序(ordo)を認め、そこから父に対して子が従属しているとはっきり主張していた(したがって彼らは子のことをαὐτόθεοςとは呼ばなかった)。反対者たちは、もしこのような順序を認めるとするなら、それらの位格の本質も同一視できないことになり、こうして三神主義が帰結すると批判した。

 初期のレモンストラント派は、自らの正統性を主張してやまなかったものの、その中からやがてユニタリアンな主張を行う者たちも現れた。

改革派神学における理性の役割 Muller, Post-Reformation Reformed Dogmatics

  • Richard A. Muller, Post-Reformation Reformed Dogmatics: The Rise and Development of Reformed Orthodoxy, ca. 1520 to ca. 1725. 4 vols. 2nd ed. (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2003), 1:398–402.

 改革派の神学者たちは、理性が神学の教えを提供するとは認めなかった。それができるのは、聖書だけである。理性ができるのは、神学のうちに論理的な誤りや、端的に非理性的な事柄が入り込むのを防ぐことである。それによって、聖書から結論を引き出したり、その結論を適切に定式化したり、神学の教えを論敵から擁護することに理性は貢献する。このように、理性はあくまで道具として重要である。

 道具としての理性の役割は、聖書でも肯定されている。たとえば、レオンハルト・ファン・リーセンによると、第一に理性は啓示を認識するのに役立つ。『マタイ福音書』第13章51節では、「これらのことがすべてわかったか」とキリストが問い、弟子たちが「はい」と答える。このように、理性によって、弟子たちは教えを認識した。

 第二に、理性は他人と議論したり、論争したりするときに役立つ。『使徒行伝』第17章11節では、ベロイアのユダヤ人たちが「非常に積極的に御言葉に耳を傾け、果してそういうことなのかと、日々書物を検討した」とある。この検討の結果、彼らの多くがキリストの教えを信じるようになった。

 第三に、理性は啓示を説明するにあたって役立つ。『ネヘミヤ記』第8章9節では、「彼ら[=エズラとネヘミヤ]は神の律法の書をはっきりと朗読し、また意味を明らかにしたので、人々はその朗読を理解した」とある。彼らは理性によって、律法の書の意味を明らかにしたのである。

 第四に、理性は誤ったことを見分けるのに役立つ。『フィリポイ』第1章10節には、「そしてその結果あなた方が、何がすぐれたことなのか自分で検証して」云々とある。キリスト教徒は、理性による検証で誤ったことを見出すのである。

 第五に、理性は反論に答えるのに役立つ。『ローマ』第9章19〜20節には、「ではあなたは私に言うだろうか、『それなら(神は)なおも(我々に対して)一体何を非難するのか。誰も神の意志に逆らうことなどなかったではないか』と。おお、人よ。神に対して言い返そうなどとは、あなたはいったい何者なのだ。彫刻の像が制作者に対して、『あなたは何故私をこういう風に作ったのですか』などと言えるだろうか」とある。ここでパウロは理性によって反論に答えている(以上の議論は、Leonard van Rijssen, Summa theologiae elencticae [Bern: Georgius Sonnleitnerus, 1676), I.10, 6に基づく)。

 このように理性の使用の意義を聖書によって裏付けることで、改革派の神学者たちは自分たちの神学が聖書に基づいているという原則を守ろうとしている。このような方針を、盛期正統主義の最後の世代に属するリーセンやマストリヒトも守っている。

 ベネディクト・ピクテーは次のように論じている。理性は信仰の原理 principium でも規準 regula でもない。それは聖書である。しかしそれでも理性は神学において大変役に立つ。

理性は精神の目のようなものである。対して聖書は、それに沿って目が測るべきものを測る測定具である。理性は道具であり、それによって信徒は、信じるべきこととして示されたことを、真理の曲げられることのない定規 norma としての聖書で測る。それはちょうど私たちが測りたいものを手と目によって公の前腕尺で測るようなものである。だが理性は信じるべきことの定規そのものではない(Benedictus Pictet, Theologia christiana, 2 vols. [Geneva: Cramer et Perachon, 1696], I.14.7, 1:96)。

 この意味で理性は、ハガルと同じく侍女でなければならない。パウロが宗教を理性的な崇拝 cultus rationalis と『ローマ』第12章1節で呼んでいるのも、その源泉が理性だからではなく、宗教を実践するのが理性的な存在者だからである(Turretin, Institutiones I.8.8)。

 トゥレティーニによれば、神学における理性の役割は、公の場で論争を決着させる審判者のそれではない。そのような権威は、神の言葉とそれを伝える牧師にある。理性の役割は、ある個人のうちで真と偽を区別することである(I.9.2)。また理性は、理性には理解不能なこと(たとえば三位一体)についてはいかなる権威も持たない。しかし、カトリックの実体変化の教説やルター派の聖餐におけるキリストの身体の遍在の教えを、物体についての理解と両立不能だという理由で否定することはできる(I.9.8)。また理性は信仰に関する教えを獲得することはできない。しかしそれらが一度啓示によって獲得されれば、それらの間のつながりをつけていくことはできる(I.8.11-12)。

 トゥレティーニはこのような神学における理性の位置づけを、2つの極端な立場の中道を行くものと理解していた。一つはソッツィーニ派によるもので、理性によって基礎づけられないことはすべてひていしまう。もう一つは、相矛盾する言明の間でどちらが正しいかを決める役割を理性から奪ってしまうルター派によるものである(1.8.2-3; I.10.1-16)。

 

 

デカルトにおける表面の自然学と化体の秘蹟 佐藤「信仰を支える人間的な論拠」

  • 佐藤真人「信仰を支える人間的な論拠 デカルトの「表面」について」『哲学』no. 73、2022年、255–270ページ。

 デカルトの化体(transsubstantiatio)の理論を、彼の自然学で「表面」(superficies)が占める役割から説明する優れた論文を読む。様々な論点が盛り込まれているため、ここでは私が理解できた限りでの論旨をノートに取る。

 デカルトは自分の自然学は、化体をスコラ学の理論よりもうまく説明できると自負していた。スコラ学の理論として、トマス・アクィナスの学説を参照する。ここで注目すべきは、アクィナスもまた、デカルトと同じく表面について論じることで、化体を説明している点である。アクィナスによると、物体の表面とは、物体の偶有性である。さらに表面は、色の基体となっている。この色によって、表面は知覚される。化体では、パンはキリストの身体に変化する。しかし、パンの表面は変化しないために、引き続きパンとして知覚される。

 この説明の難点は、パンの実体がキリストの身体に変化したのに、どうしてその実体の偶有性である表面が変化しないかの説明が困難な点にある。これに対してアクィナスは、神の力を持ち出す。神の力によって、表面という偶有性は、それ自体として存続でき、色の基体であり続けられる。同じく神の力によって、キリストの身体はパンに現前する。こうして、表面の存続と、キリストの身体の現前の2点が、神の力を根拠に説明される。

 この見解に対してデカルトは、化体を経ても表面が存続することは、神の力を持ち出さずとも理解できるという。というのも、物体が実体として変化したとしても、その物体を構成する粒子と、それを取り囲む物体との境界としての表面は変化しないということは、十分考えうるからである。表面が同じであれば、それがどう光を反射し、どのような色のものとして知覚されるかは変化しないのは当然である。これは、デカルトが表面を、ある物体とそれを取り囲む物体の境界としてのみ考えているから可能な理解である。これはアクィナスのように、表面をある物体の偶有性とし、さらにその偶有性が色を支えていると見なすならば、想定できない。

 しかし、物体が変化しても、表面が存続するという主張には、なお理解しがたい点があるかもしれない。この点についての理解を深めるためには、キリストの身体の現前について、デカルトがどう論じているかを見るとよい。デカルトは、キリストの身体の現前が超自然的な仕方で起こることを認める。しかしなお、自らの自然学と関連づけることを行っている。私がパンを食べる。するとパンは粒子に分解され、血液を流れる。しかし、物体として見るならば、これは元の表面を維持している。というのも、粒子の一つ一つとそれを取り囲む物体の境界は、総体としては変化していないからである。ただし同時にパンはある意味で実体変化している。というのも、私の魂がパンの粒子に結合することで、それらは「私の身体」になるからである。これと同じように、聖別の言葉(「これは私の身体である」)によって、キリストの魂がパンに結合することで、それらは「キリストの身体」になる。このパンはたとえちぎられたとしても、それらの粒子の各々にキリストの魂が結合している以上、キリストの身体であり続ける。ここで聖別の言葉がなぜ力を持つのかとか、キリストの魂がどうパンに結合するのかは、説明できない。しかしそれでも、人間の魂が物体に結合するという心身合一と平行させた説明は可能である。

 ここから、化体における表面の存続が理解できる。まず消化においてパンが粒子レベルに分解されたとしても、それらの粒子が元来もっていた表面が失われることはない。それは、たとえそれらの粒子が、私の魂に結合して、「私の身体」となったとしても同じである。同じようにパンも、ちぎられようとも、キリストの魂に結合したとしても、それを構成する粒子が元来もっていた表面を失わない。表面との接触を介して(例えば色や味の)感覚は生じるのだから、このパンを食べると、パンの味がするのは当然である。

 最後に確認しなければならないのは、表面を使った説明を、デカルトは化体の説明に限って用いているのではなく、むしろ表面は彼の光学、宇宙論、人間論、運動論を横断して頻出するテーマであるという点である。この意味で、デカルトの自然学は表面を介して、化体の問題に結びついていると言える。たとえば光学は、表面で光がどれほど屈折するかの研究である。また表面での光の屈折が眼球内で繰りかえされることにより、視覚は生じる。よって、表面の学問である光学と色の知覚は不可分な主題である。だとすると、「(『世界論』で)色について私なりの仕方で述べるつもりでおり、したがって、聖体の秘蹟でパンの白さがいかに残るかを説明しなければならないと思い…」(本論文256ページ)と、デカルトが色の理論から、化体の問題が直ちに説明できると考えているのも、納得がいく。

 以上のように、デカルトは化体の問題を通じて、自らの自然学がキリスト教の教義と合致し、しかも従来のスコラ学よりも奇跡を持ち出さずに説明できる領域を拡大しているということを示そうとした。この試みを可能にしていたのが、彼の表面の自然学であった。

聖書は何に適応しているのか Schlebusch, "Die begrip accommodatio by Wittich"

  • J. A. Schlebusch, "Die begrip accommodatio by Christoph Wittich (1625−1687) en sy Cartesiaans-rasionalistiese omgang met die Bybelse teks," LitNet Akademies Jaargang 18 (2021): 240–258.

 ウィティキウスの「適応」(accommodatio)理論を扱った論文を読む。適応理論の歴史は古い。それはアウグスティヌス以来存在している。しかし、その伝統の単純な延長線上にウィティキウスの理論を位置づけることはできないと著者は指摘する。

 伝統的に適応理論は、神がその神秘を伝えるにあたり、有限で卑小な人間の理解力に適応した語り方を聖書で行ったとしてきた。対して、ウィティキウスが適応について語るときには、そのような人間の理解力にある一般的な弱さへの適応を問題にしているのではない。そうではなく、聖書が書かれた時に想定されていた読み手の側にある認識の不足(ウィティキウスの表現では「偏見 praejudicia」)に、聖書の語り方は適応しているという。それだけでなく、ウィティキウスは聖書の記述は、書き手の偏見も反映しているという。この点でウィティキウスの考えは、聖霊が聖書の書き手すべてを導き、その書かれたのことのすべてを聖霊からの教えとして受け取らなければならないという考えからは離れている。

 以上から分かる通り、伝統的な適応理論が人間の認識能力の一般的な不足への適応について語っていたのに対して、ウィティキウスは特定の時代の大衆や、その大衆に宛てて聖書を書いた書き手の偏見への適応を語っている。

デカルト主義の聖書解釈法 Savini, "Methodus cartesiana ed esegesi biblica"

  • Massimiliano Savini, "Methodus cartesiana ed esegesi biblica: l'apporto di Christoph Wittich alla polemica copernicana in Olanda (1650–1659)," in Studi cartesiani : atti del Seminario Primi lavori cartesiani. incontri e discussioni, Lecce, 27-28 settembre 1999, ed. Fabio A. Sulpizio (Lecce: Milella, 2000), 303–331.

 ウィティキウスの聖書解釈の特徴を、クラウベルクへの依拠のうちに見ようとする重要な論文を読む。

 ウィティキウスをはじめとするデカルト主義者たちは、聖書のうちに天動説を支持するように読める箇所があったときに、次のように論じていた。これらの箇所は大衆の理解力に適応させられる形で書かれている。よって、そこに自然に関する真理を読み取るべきではない。これに対しては保守派の神学者たちから次のような批判がなされていた。デカルト主義者たちは、聖書のうちに理性が教えるところと合致しない記述があれば、それを大衆の理解力に合わせて書かれたものと解釈している。これは、理性に聖書を従わせようとすることに他ならない。

 デカルト主義者たちが聖書の解釈の基準として理性を採用していたということは、今日でも広く受け入れられているように思われる。しかし、著者はこの理解は間違っていると主張する。

 このことを理解するためには、ウィティキウスの聖書解釈が、クラウベルクのデカルト主義論理学に依拠していることを押さえなければならない。クラウベルクは、言葉の解釈の重要性に注意を促していた。まずクラウベルクは、私たちが幼少期に感覚から得られた情報をそのまま信じ、結果として偏見を抱くようになることを確認する。だとすると、論理学はこの偏見にとらわれている私たちの通常の状態に適応したものでなければならない。ここから論理学は大きく2つの目的をもつようになる。一つは、私たちが自分で正しい認識をもてるように、私たちを導くものである。もう一つは、私たちが他人の導きで正しい認識をもてるようにするために、他人の言わんとすることを正確に理解させることである。この後者の目的のために、クラウベルクはある文言を理解するためには、そこで使われている個々の単語の意味を知るだけでなく、誰がその文言を発したのか、それを解釈する者の目的はなにか、それはなんのために発話されているのか、どのような状況でそれは発話されたのか、を知らなければならないとしている。

 このクラウベルクの理論を、ウィティキウスは聖書解釈に適用した。聖書はなんのために書かれたのか。救いを知らせるためである。それは誰に対して書かれたのか。偏見を脱していない大衆のためである。ここから、大衆に救いを知らせるために、聖書は自然に関する記述では、大衆の理解力に適応させられる形で書かれているということが結論できる。これにより、聖書で意味されていることと、それを意味するためのやり方の区別ができるようになる。意味されていることは救いについての教えであり、それを意味するためのやり方として、大衆の理解力に適応させられた表現があるのである。このうち前者だけが、聖書の教えとして尊重されなければならない。

 以上の解釈を導いているのは、あくまで聖書が誰に対して何を伝えようとしたのか、という問いである。ウィティキウスは、聖書を理性に従わせているわけではない。

性を通じて働く権力 中山『フーコー入門』第5章

 

必要があって、フーコーの入門書から『知への意志』を取り上げた箇所を読む。フーコーは19世紀半ばから、社会が有機体的なモデルで理解されるようになるとともに、その社会を支配する新しいタイプの権力である「生-権力」が出現したと考える。この権力の特徴は、性(セクシュアリティ)を通じて働く点にある。

 近代のブルジョワ社会では、性に過敏になるという特徴をもつ。この時代に、人びとは自らの性について、告白をしはじめる。これに伴い、性についての科学が生じる。そこでは、性についての正常と異常の区別が、科学的な真理というお墨付きを与えられる。それにより、人びとが行う性についての告白の内容も、その人についての真理を構成するものと考えられるようになり、性に関する告白を通じて人間のアイデンティティも形成されるようになる。

 性の問題は、個人の問題であるだけでなく、国家の問題にもなった。より強靭な社会を作り出すために、生殖が出生率の問題として管理されるようになる。子を生み・育て、良き市民を輩出しつつ、家庭を維持する役割を担う女性の身体が重要性を帯びる。子どもの自慰や同性愛は、性的な倒錯であり、たとえば自慰は子どもたちから繁殖の能力を奪うとして、厳しく管理された。他にも数多くの性倒錯のカテゴリーがつくりだされ、該当すると認定された者は、医学的な調査の対象となった。このような性をめぐって展開された一連のテクノロジーは、制度、法、道徳、科学、医学的診断といった様々な要素からなる性の装置によって実現可能となっていた。

 性倒錯を危険視する発想は、優良な種としての人種を守るという考えとつながり、ここから近代の人種差別が生まれた。ここでは、国家が医学や生物学を通じて人種を区別し、維持すべき人種の維持に有害とみなされた者を排斥する。

 このように、近代社会は性を通じて、個人のアイデンティの形成を促すとともに、性を通じて種というマクロな単位を生かすことも目指したのであった。

 

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