顔を持たぬために歴史を書くこと 慎改『ミシェル・フーコー』

 

 著者は、フーコーの著作、講義録の見事な翻訳と、明晰な解説をすでにいくつも世に送り出している。本書は、その著者による待望のフーコー入門書である。入門書であるのだから、フーコーの主要著作の内容紹介はもちろんなされる(まだ邦訳のない『肉の告白』の解説もなされる)。しかし、それと並んで本書が重視するのは、著作と著作のあいだにあるつながりである。フーコーは次々と主題を変える。その変化をどう説明すればいいのか。

 著者によれば、最初期のフーコーの問題意識は、近代社会のなかで失われた人間性をどう取り戻すか、というものだった。しかし、まもなくこの問題意識が問いの対象となる。なぜ失われたものを、見えなくなってしまったものを私たちは求めるようになったのか。フーコーは歴史研究により、そもそも今の私たち・失われた私たちとか、見えているもの・見えないものという区別自体が、歴史のある時点で出現したものだと考えるようになる。この区別の出現は、18世紀の学問の多くの領域で認められる。その背後には、人間を個人として取り出し、その(表に現れる行動というより、その行動を引き起こしている内なる)本性を見極めることで、統治を円滑に進めようという新しいタイプの権力の出現があった。

 個々人のあり方を特定しなければならないという任務の起源は、古代に求められるようになる。そこで主題となるのが性である。古代のギリシア、ローマでは、性に関して自己を律しなければならないという考え方が見られる。しかし、律するのはあくまで自律的な人間であるためである。これに対して、修道制の発達以降のキリスト教のうちでは、自己への強い不信感が見られる。堕落によって、私たちのうちには悪しき情欲がやどってしまった。この情欲の働きを、告白などの実践によって明らかにしなければならない。こうして、ある人の欲望を丹念に調べることで、その人がどういう人であるかを特定しようという活動がはじまる。このようなギリシア、ローマを経てキリスト教へという経緯は、最晩年のフーコーによって、性の問題に限らない、およそ自分と真理(ここには、なすべきことという規範も含まれる)の関係をめぐる歴史として語り直されることになった。

 本書を読むと、フーコーの様々な見解のあいだにつながりがあることが分かる。自分の関心がある領域について、彼の著作をつまみ食いし、その偶像破壊的なテーゼに衝撃を受けていたといったタイプの読者(私のような読者)にとっては、断片的な知識に文脈が与えられるという発見がある。ただ、フーコーをまったく読んだことがない読者に、本書がどれほど理解されるかは、私にはよく分からない。著者はそのような読者を念頭において書いたというものの、著作間のつながりをつけるという力点の置き方からして、どうしてもすでにフーコーを読んだことがある人向けになっているところがあると思う。

 著者の他の書物と同じく、本書もまた難解なフーコーの著述に明晰な解説を与えることに成功している。これは皮肉なことなのかもしれないが、レトリックをはぎ取った形でフーコーの主張が取り出されたことで、その疑わしさが際立つ箇所がある。例として、『言葉と物』を解説した次の一節を見てみよう。

事物の存在を表象の外部に想定することがなかった古典主義時代の思考にとって、事物と表象とがどこでどのように結びつくのかという問いは無用のものであった。つまり、その思考にとっては、表象を自らのために構成する者としての人間は不在であったということだ。そしてそのように表象を基礎づける者の存在が問題にならない以上、そうした存在に固有の有限性も問題とはなりえなかった。有限な存在者であるという事実は、無限ではないということ以上の意味を持ちえなかったのである(71ページ)。

17世紀の哲学者が、事物の存在を表象の外部に想定しないというのは衝撃的だ。熱さの表象と似たものが事物の側にないというのは、ガリレオデカルトにとって重要なテーゼではなかったのだろうか。人間という「存在に固有の有限性も問題とはなりえなかった」というのも信じがたい。『省察』の「第三反論」のなかでホッブズは、その先がないような端っこを私たちが考えられないというのが、有限な私たちにとっての無限の意味だと言っていないだろうか(『デカルト著作集 第2巻』白水社、2001年、226ページ)。ロックの「私たちの知性が取り扱うのに適した対象と適さない対象とをみる必要がある」という問題意識は、まさに「表象を自らのために構成する者としての人間」を問題にしてはいないのだろうか(『人間知性論』大槻春彦訳、岩波文庫、第1巻、1972年、19ページ)。ホッブズやロックごときは、フーコーの歴史記述からすれば些末なのかもしれない。しかしヒュームはどうなるのだろう。ヒュームはカントにとって決定的な意味を持っており、そしてカントはフーコーの記述の中核に位置している。

 このような疑わしい主張をフーコーが行ったのは、人間の人間性が問題になったのが、18世紀になってからだというテーゼを守りたかったからだろう。そこに固執したのは、自分がかつて持っていた問題意識自体が、近代の入り口で一挙に構成されたことにしたかったからだろう。それにより、自分のあり方が明確に理解でき、それによってかつての自分(と自分が生きる時代)から距離を取ることができる。この意味で、フーコーは真に「自己から抜け出すための哲学」を実践していた。固定した「顔を持たぬために書くこと」はしかし、彼の歴史研究を歪めてもいた。

アルミニウス主義者の夢 Lüthy and Spruit, "the Frisian Philosopher Henricus de Veno," #3

 デ・ヴェノを理解するためにおさえておかなくてはならないもう一つの文脈は、いわゆる「ウォルスティウス事件」である。コンラッド・ウォルスティウス(フォルスティウス)は、シュタインフルトのギムナジウムの神学教授であった。1588年に設立されたシュタインフルトのギムナジウムは、1614年にフローニンゲン大学ができ、1630年にデーフェンテルに学校ができるまでは、カルヴァン主義の牧師をオランダに供給する重要な拠点であった。実際、オットー・カスマンやクレメンス・ティンプラーという著名な神学者が、シュタインフルトで学んでいる。

 事件の発端は、1610年にウォルスティウスがライデン大学の神学教授に任じられたことにあった。ヤコブス・アルミニウスの後任である。ここから10年あまりに渡るアルミニウス主義者と反アルミニウス主義者の争いがはじまることになった。抗争は最終的に、1619年のドルトレヒト公会議で、ウォルスティウスがオランダから追放されるまで続く。

 この争いで重要な役割を果たしたのが、デ・ヴェノの同僚の神学教授視ブランドゥス・リュッベルトゥス(Sibrand Lubbert, ca. 1555–1625)であった[この人物については、W. J. ファン・アッセルト編『改革派正統主義の神学 スコラ的方法論と歴史的展開』青木義紀訳(教文館、2016年)、162ページを見よ]。カルヴァン主義の正統派を自認するリュッベルトゥスは、ウォルスティウスとだけでなく、彼が正統派と相容れないと考えた多くの神学者と論争を繰り広げていた。論争は、アルミニウスの弟子であるシモン・エピスコピウスがフラネカーにやってきて、リュッベルトゥスと公開討論を行うなど激しさを増していく。

 ウォルスティウスの見解で最も問題視されたのは、神と被造物にアリストテレスの10のカテゴリーを一義的に適用しようとした点であった。これにより、神が物質化されてしまうという危惧を多くの神学者が抱いたのである。

 デ・ヴェノがウォルスティウスをめぐる論争にたいしてどのようなスタンスをとっていたのかは分からない。しかし神学の真理と哲学の真理が一致すると強く信じ、また正統的な教義を定めるのは教会ではなく国家であると考える点で、デ・ヴェノはウォルスティウスと見解を同じくしていた。ウォルスティウスの事件が起きる前後に、デ・ヴェノの職務停止が起き、復職の際には「精妙な問い」に取り組むのを避けるように、と条件が付けられていることを考えるならば、デ・ヴェノがウォルスティウスのようなアルミニウス主義者に接近していると認知されていた可能性は十分考えられる。

 デ・ヴェノの著作は出版されず、その後忘れ去られてしまった。しかし彼の学説は確かに受け継がれている。彼の学生であった原子論者ダヴィド・ゴルラエウスである。彼はデ・ヴェノの2元素説を受け入れただけでなく、アリストテレスの場所の定義を、ユリウス・カエサル・スカリゲルのそれに置き換える点でもデ・ヴェノにならった。それ以上に、哲学と神学の一致を信じるという点で、デ・ヴェノの精神はゴルラエウスに継承されているのである。

 アルミニウス主義者のなかには、たとえ見解の不一致があっても、理性にもとづく議論を続ければ、やがて一致にいたるとする者たちがいた。そうして、宗派の分裂すら克服できると考えていたのである。もし、デ・ヴェノがアルミニウス主義者に共感を寄せていたとするなら、あるいは彼の不可解なローマ訪問も、キリスト教の統一を夢見たための行動だったのかもしれない。

関連書籍
改革派正統主義の神学―スコラ的方法論と歴史的展開

改革派正統主義の神学―スコラ的方法論と歴史的展開

 

 

モーセとイタリアの自然学 Lüthy and Spruit, "the Frisian Philosopher Henricus de Veno," #2

Christoph Lüthy and Leen Spruit, “The Doctrine, Life, and Roman Trial of the Frisian Philosopher Henricus de Veno (1574?–1613),” Renaissance Quarterly 56 (2003): 1112–1151.

 1598年に釈放されたデ・ヴェノは、バーゼルを経由して、故郷に戻る。戻ってきた彼は、法学、哲学、神学の学位を国外で取得したと自称していた。このうち法学の学位に関しては確かに取得していた可能性がある。しかし、残りの二つについては間違いなく嘘であった。

 1601年にフラネケル大学の倫理学・自然学教授となる。年収は600フロリンであった。その大学生活は平穏ではなかった。1609年に総長に就任したものの、同僚から訴訟を起こされている。訴訟の原因は正確には分からない。彼の特異な教育内容と、その行動(傲慢であったと伝えられている)が関わっていたのだろう。他にも、神学的な問題が絡んでいたのかもしれない。彼は一時的に職を解かれたものの、1611年に再度教授職に戻っている(ただし、年収は100フロリン下がった)。1613年に亡くなった。

 デ・ヴェノの主催した討論を見ると、彼が神学上の真理と哲学上の真理の一致を強く唱えていたことが分かる。いわゆる二重真理説を批判する点で、オットー・カスマン、ルドルフ・ゴクレニウス、ニコラウス・タウレッルスのような当時のプロテスタントの知識人にならっていた。哲学と神学を一致させるために、デ・ヴェノは聖書が自然学上の真理の源泉となると主張する。彼にいわせれば、アダム、ノア、ソロモンは、「自然学の著者」なのであった。彼がいわゆるモーセの自然学の構想を抱いていたことが分かる。

 自然学の学説としては、デ・ヴェノは元素の数を2つに減らしている。元素は土と水だけである。それぞれ乾、湿の性質をもつ。火は元素ではない。空気は単純な物体ではあるものの、混合物を構成するような元素ではない。それはむしろ天からくる熱を伝達する役割を果たす。また質料と形相の結合を可能にする精気を想定している。この精気が熱を道具として使って、様々な現象を引き起こす。これらの学説を、デ・ヴェノはイタリアの自然哲学者ジローラモカルダーノから引き継いでいた。

 政治を主題とする討論では、あるべき宗教的な実践と教義を決めるのは国家であり、教会ではないとデ・ヴェノは主張している。最後に、徴(しるし)を扱う討論では、徴によって意味されているものは、徴と同じ場所にはないという説が唱えられている。これは、聖化されたパンとぶどう酒とおなじ場所に、キリストの身体と血はないというカルヴァンはの聖餐式解釈を正当化する役割を果たしていた。

関連書籍
天才カルダーノの肖像: ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈 (bibliotheca hermetica 叢書)
 

 

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フラネケルからローマの監獄へ Lüthy and Spruit, "the Frisian Philosopher Henricus de Veno," #1

 

Christoph Lüthy and Leen Spruit, “The Doctrine, Life, and Roman Trial of the Frisian Philosopher Henricus de Veno (1574?–1613),” Renaissance Quarterly 56 (2003): 1112–1151.

 ダヴィド・ゴルラエウス(David Gorlaeus, 1591–1612)は、初期近代の原子論者にして、神学を学ぶ学生であった(在学中に21歳で没している)。この人物の知的な背景を探ると、学部時代を過ごしたフラネケル大学の哲学教師であるヘンリクス・デ・ヴェノ(Henricus de Veno, 1112–1151)に行き当たる。

 1574年頃にレーワルデンで生まれたデ・ヴェノは、フラネケル大学でまずは学んだ(この大学は、1585年に設立されたばかりであった)。その後、ライデンで哲学の修士号を取得している。1596年にフラネケル大学に戻り、神学部の学生となる。しかし、そこで学位を取ることはなく、国外で学ぶことを選択した。1599年に再びフラネケルに戻ってきたときには、彼は法学、医学、そして哲学の学位を取得したと自称していた。

 なるほど確かに彼は国外で学んでいた。1598年にバーゼル大学の神学部に登録していたことが、大学の記録から分かる。しかし驚くべきことに、その記録によれば、ヴェ・ヴェノはバーゼルに来る以前にローマにおり、しかもそこで投獄されていたというのだ。

 実際、異端審問所の記録によると、デ・ヴェノは異端者であるとされ、異端誓絶を行っている。彼自身の証言によると、カルヴァン主義への信仰を失って、イタリアに来たのだという。この証言がどの程度信頼できるかはわからない。彼はカルヴァン主義者としてローマに来たのかもしれない。いずれにせよ、彼が最終的に審問の場で、カルヴァン主義の異端から離脱し、カトリックに加わると誓ったことは確かである。その後彼は一週間もしないうちに釈放された。異端審問所は、生まれながらのカトリックの異端には厳しかったものの、プロテスタント圏で生まれた者の異端の初犯には比較的寛大であった。なお、デ・ヴェノが投獄されていたときには、ジョルダーノ・ブルーノも同じ場所にいた。彼らのあいだでどのようなやり取りがあったかは(そもそもやり取りがあったかどうかも)分からない。

自然法の二つの伝統 Saccenti, "Mysterium naturae" #1

  • Riccardo Saccenti, "The Ministerium Naturae: Natural Law in the Exegesis and Theological Discourse at Paris between 1160 and 1215," Journal of the History of Ideas 79 (2018): 527–45.

 ペトルス・ロンバルドゥスと、その後継者たちが、自然法の概念をどう理解していたかを検討した論文を読む。私が理解した限りでは、前半部ではだいた以下のようなことが書いてある。

 自然法の理解には伝統的に二通りあった。この理解はグラティアヌスにあらわれている。第一は、聖書に書かれている法のことで、おおよそ黄金律に一致する。他方、神に起源をもつ法と並んで、自然法はどの人間社会ももちあわせている公正さ(equum)に関わる決まりだという考えもあった。これは、ローマ法の伝統に深く入りこんでいる。

 12世紀初頭頃にまで写本が遡るGlossa Ordinaria(ここではパウロ書簡に関係する部分)では、この2つの流れの両方が見られる。神に由来する知識としては、自然の秩序を手がかりに、神について知ることができるという自然神学の考えが見られる。他方、人間が共有する知識としては、どの人間でも善悪をわきまえているということが指摘される。ただし、だからといって人間が善を為せるわけではない。人間は堕落しているからだ。そのため、人間の内にある神の似姿を、神が恩寵によって回復させてはじめて、人間は善を為せるとされる。

 Glossaに見られる二つの考え方を統合したのが、ロンバルドゥスだった。彼にいわせれば、自然の秩序を通して神を知ることができるのも、生まれつき人間が善悪を把握できるのも、ともに神が人間に与えた理性に由来するという。ここから神学的伝統から来る自然法の理解と、法的伝統からくる自然法の理解が統合されたのだと、著者は指摘する。

 読んでいて驚いたのが、ロンバルドゥスが贖罪と受肉の秘儀について、自然を通して知ることができると断言していることだった。著者によると(注19)、ロンバルドゥスはアベラールほどには理性によるキリスト教教義の理解の可能性を強く認めていなかったらしい。しかし、引かれている文章はこの可能性を強く認めているように読める。

自由になるための入り口 國分功一郎『スピノザ 『エチカ』』

 

 「100分 de 名著」シリーズから、スピノザの『エチカ』を解説したものがでました。難解な学説が、芸術的といっていいほど見事に説明されています。『エチカ』への入り口として、まず読むべき書物の地位を獲得するのではないでしょうか。以下、(少し私の言葉づかいが混じってしまっていますが)、全体の内容を紹介しておきます。

 第1回「善悪」では、自然のうちには、それ自体として善いものや悪いものはないという話からはじまります。善悪はあくまである特定の時点でのモノとモノの組み合わせに関して生じるものだといいます。たとえば、ある時点でのある人にとっては、薬は善であるというように決まります。しかし、別の時点では、おなじ人にとってすら薬は悪であるでしょう。このように、善悪は常に変化する事物のその都度のあり方から決まってきます。
 第2回「本質」では、変化から出発して、スピノザがいうところの本質が理解されるという話題が展開されます。事物というのは、周りから刺激を受けながら、常に活動のあり方を変化させています。不変なのは、変化のなかでも自己の存在を維持しようとする傾向であり、これが本質になります。
 個物は互いに刺激を与えあってあり方を変化させ続けます。この意味で、個物は互いに独立した存在ではありません。刺激のやり取りの巨大なネットワークの一部です。このネットワークの全体は、外部をもちません。これをスピノザは神とします。この神がネットワークの各部位で取る様々なあり方が個物ということになります。これに関して、見事な説明を引用しましょう。

神を無限に広がる一枚のシーツのようなものにたとえれば分かりやすいかもしれません。シーツに皺が寄ると、さまざまな形や模様ができますが、それが変状としての個物です。シーツを引っぱると皺は消え、また元の広がりに戻りますが、シーツは消えません(56ページ)。

 第3回「自由」では、意志に関する通俗的な理解を批判しながら、スピノザの自由の概念が解説されています。自由というのは選択肢のなかから好きなものを意志によって自発的に選ぶということではなく、むしろ、行為のうちで自己のあり方がよりどれだけ多く表現されるかの度合いだといいます(これだけではなんのことか分からないと思いますので、詳しくは本文のこれまた見事な説明をどうぞ)。
 第4回「真理」では、デカルトの真理観と対比させて、スピノザの真理観が説明されます。デカルトは、真理の公共性を重んじました。彼は要するに、定規を当てたり、秤ではかったりするという公共の基準に照らし合わせてはじめて私たちは真理を得られると考えていました。そのような基準のないところには、真理を認めませんでした。それにたいしてスピノザの真理は、公的な基準に照らし合わされるようなものではありません(基準を置いてしまうと、基準が本当に公的なものかを判定するために、判定のためのさらなる基準が必要になり、無限後退に陥る)。そうではなく真理を獲得したら、自ずと私たちはいま真理を獲得していると分かるというのです。この実感が私たちを変えていきます。この意味で、スピノザは真理の公共性よりも、それが私たちを変化させる点に着目しているといえます。

 以上が本書の概要です。全体として説明がきわめて分かりやすいです。また、スピノザの学説がもつ含意を、身近な例をまじえながら見事に説明できています。構成としても、『エチカ』第1部の神から入るのではなく、4部の善悪から話をはじめるのも、(先例があると認めつつも)卓見だと感じます。

 一つ私と考えと違うなと思ったのは、スピノザの特殊性についてです。著者は、スピノザの考え方は、他の哲学者の考え方とは、アプリケーションのレベルではなく、OSのレベルで違うとしています。また、スピノザは彼の著作を読んだこともない人々に批判されたとしています。まず後者の点に関しては、すくなくとも当時のスピノザの批判者のうちには、彼の著作を精読していた者たちがいたということを、強調しておきたいです。私が実際に見た例では、デカルト主義者の神学者クリストフ・ウィティキウスの『反スピノザ』は、『エチカ』への深い理解をしめしています。また、ユトレヒトデカルト主義者たちが、『神学・政治論』を貪るように読んでいたことも知られています(参照)。
 むしろ私としては、なぜこんなにみなスピノザを理解できてしまうのかと驚いてしまうくらいです。あんなにワケが分からない書き方がされているのに。一つには、デカルトをよく理解していた人々にとって、スピノザの哲学はその一つの発展形として理解しやすかったのでしょう。それがあってはならない発展形であったとしてもです。
 すみやかな理解のもう一つの理由は、デカルト主義者に限らず、哲学者たちがなんとなく予感していたことを、スピノザが見事に定式化してしまったからではないかというものです。とくに個別的なものしかない物質の世界と、普遍をあらわす概念によって記述される真理の世界の関係がどうしても説明できないと苦しんでいるなか(イデアの分有とか、個別的知性と普遍的知性の想像力による接続といったことがいろいろいわれていました)、神のうちでの並行論のような道具立てが出てきたときに、「それをしたらうまくいくだろうが、しかしいくらなんでも…」という反応になったのではないでしょうか。ここを突き詰めて考えるとスピノザに接近するという見通しは、ライプニッツがほぼおなじ結論に達していることからも傍証されるように思われます。
 以上のように考えると、違うOSであるといえるほどにスピノザが特殊であるとは言い切れないのではないかと思えてくるのです。むしろ、哲学の歴史の中で予感されていたナニカをおもてに引きずりだしてしまったというのが実情に近いのではないか。だからこそすみやかに理解され、強い反発を招いたのではないでしょうか。
 このようなスピノザ哲学史のなかでの位置づけについては、この後ライプニッツの『弁神論』を読みながら、しっかりと定式化できていけばいいと考えています。しかしそのような余談はどうでもよく、とにかく本書を『エチカ』への入り口として強く勧めます。

『ピカトリクス』邦訳のわずかばかりの検証

ピカトリクス―中世星辰魔術集成

ピカトリクス―中世星辰魔術集成

  • 『ピカトリクス 中世星辰魔術集成』大橋喜之訳、八坂書房、2017年。

 ラテン語訳からつくられた日本語訳である。その第1章の最初の2文について、訳文を検討した。ラテン語は難解であり、私の理解が及ばないところも多い。しかしそれでも、いくつかの箇所については、邦訳の問題点を指摘できると考えた。

 ラテン語の本文は以下からとった。これは、邦訳が底本としているものである。

  • David Pingree, ed., Picatrix: The Latin Version of the Ghāyat al-ḥakīm (London: Warburg Institute, 1986).

 第1章の最初の2文をまず抜粋する(3ページより)。

Scias, o frater carissime, quod maius donum et nobilius quod Deus hominibus huius mundi dederit est scire quia per scire habetur noticia de rebus antiquis et que sunt cause omnium rerum huius mundi et que cause magis propinque sunt causis aliarum rerum et qualiter una res cum alia convenienciam habet, et propter hoc sciuntur omnia que sunt et qualiter sunt, et qualiter una res post aliam in ordine elevatur, et in quo loco ille qui est radix et principium omnium huius mundi rerum existit, et per eum omnia dissolvuntur, et per ipsum omnia nova et vetera sciuntur. Ipse enim est in veritate primus, et nihil in eo deficit nec aliquo alio indiget cum ipse sui ipsius et aliarum rerum sit causa, nec ab alia recipit qualitates.

 この箇所の邦訳は、次のようになっている(7ページより)。

親しき兄弟よ、神がこの世の人々に授けたまうた高貴にして最大の賜は知るということに尽きる。知ることにより古のものごとに関する知見が得られ、この世のあらゆる事物の原因が知られる。また偶因の多くは他の事物によるものであることが。いかにしてある事物は他と共通するものをもつのか。まさにここからあらゆる存在物とその性質が知られ、いかにある事物は他よりも高い段階にあるか、それらがある場所こそがこの世に存する万物の礎であり端緒原理であること、またそこにすべては解消されていくことが、また古今のすべてが知られる。それ(知ること)こそがじつに第一の真実であり、それには何の欠如もなく、それ自身以外になにか他のものを必要とすることも、他の事物を原因とするのでもなく、他の諸性質を受けとるのでもない。

 以下の部分に関しては、訳文に再考の余地があると思われる。

「それらがある場所こそがこの世に存する万物の礎であり端緒原理である」in quo loco ille qui est radix et principium omnium huius mundi rerum existit

ここは、関係代名詞節を省略すると、次のようになる。

in quo loco ille existit

これを直訳すると、「その場所にそれ(その者)は存在する」になる。間接疑問文だとすると、「どの場所にそれが存在するのか」になる。どちらの解釈をとるにしても、「それらがある場所こそがこの世に存する万物の礎であり端緒原理である」とは、ならないのではないか。

「またそこにすべては解消されていく」per eum omnia dissolvuntur

これも直訳すると、「それによってすべては解消される」になる。per の前置詞節を「そこに」と訳せるかは疑問である。また邦訳は eum は、locum であると解釈している。しかし、これはむしろ少し前にある ille を受けているのでないか。「この世に存する万物の礎であり端緒原理であるそれ」(ille qui est radix et principium omnium huius mundi rerum)である。これは、神を指すのだろう。

「それ(知ること)こそがじつに第一の真実であり」Ipse enim est in veritate primus

邦訳は ipse が、知ること(scire)を受けると解釈している。しかし、ipse という男性名詞が受けているのは、前文の ille ではないだろうか。ille は神であり、神が「第一の真実であり、それには何の欠如もなく…」というのは、自然である。

「他の諸性質を受けとるのでもない」nec ab alia recipit qualitates

「他の」が諸性質にかかると解釈されている。しかし、alia は ab alia [causa] として、causa にかかっていると考えるべきである。したがって、「他の原因から諸性質を受けとるのでもない」と訳すべきである。