映画『オデュッセイア』を見ました。以下、ストーリーの核心部分に関するネタバレ…はまあ題材が題材なだけに気にしなくていいと思うのですけど、ホメロスの『オデュッセイア』と映画との違いについて少し書いてしまっているので注意してください。
とにかく見ている間思い浮かんでいたのは、アリストテレスの言葉でした。
そして、叙事詩的な構成を持つものを、そのまま悲劇にすることのないようにしなければならない。ここでいう「叙事詩的」とは、多くのストーリーが含まれることである。例えば、『イリアス』の全体を残らず悲劇のストーリーにしようとするような場合が問題になる。なぜなら、叙事詩の場合には全体の長大さゆえに諸部分もそれに見合った大きさを占めるのに対し、悲劇作品では著しく見込みを超えてしまうことになるからである。(アリストテレス『詩学』第18章、三浦洋訳、光文社古典新訳文庫、2019年、136ページ)
「著しく見込みを超えてしまう」のだけれど、悲劇は上演時間の都合があるので一定の範囲に収めないといけません。そのため「多くのストーリー」が「それに見合った大きさを占める」ことができず、細切れに、無造作に並列されてしまうことになる、ということをアリストテレスは危惧しているように読めます。
今回の映画でもまさにそれが起きているように思えました。たとえば映画ではオデュッセウスが放浪するところの有名な話はほぼすべて取り上げられています。出てきた順でいうと、キュクロプス、ライストリュゴネス人、キルケー、冥府からの死者の呼び出し、セイレン、スキュレとカリュブディスです。それぞれにアレンジが施されていて興味深くはあるのですけど、どうしてもエピソードが物切れに並べられている感はいなめませんでした。もう少し大胆に改変するのかと思っていましたけど、意外に伝承されている叙事詩に忠実なんですよね。
改変ということで一番びっくりしたのは、オギュギエ島からダイレクトにイタケにたどり着くところです。いや遠くないですか?しかもものすごくぼろい筏なんですよね。絶対にたどり着けなさそう。この改変にともない、パイエケス人のところでナウシカアに会うとか、そこでの宴会でオデュッセウスが放浪の旅について語るとかはなくなっています。放浪の旅についてはむしろ、オギュギエ島でオデュッセウスが徐々に記憶を取り戻していくという形で語られています。この「思い出す」というテーマは何か批評の対象になりそうです(が、私にはできない)。
全体の主題としては、「客人の歓待」というものがあります。これは元の叙事詩にももちろんあって、たとえば第17歌には次のようなセリフがあります。
アンティノオスよ、憐れな浮浪者を撃つとは怪しからぬことだ。もしこの者が上天から降ってこられた神であったら、そなたの身の破滅だぞ。実際、神々は遠方からの異国人に身を変え、いかなる姿にもなって、人間の無法な振る舞い、正義の行いに目を光らせつつ、町々を巡られるものなのだ。(『オデュッセイア』第17歌、松平千秋訳、岩波文庫、1994年、下巻、142ページ)
この「異国人」にあたるギリシア語は日本語訳では「客人」とも訳されたりします。これを映画は一貫して「stranger」とあらわしています。この点で映画はおそらく、エミリー・ウィルソンによる『オデュッセイア』の英語訳を踏まえていると思われます。この英語訳は古めかしい表現を一切使わず、読みやすい現代英語で『オデュッセイア』を訳出し、しかも随所に熟慮した上での大胆な訳語の選択が見られます。例えば冒頭部は以下のようなものです。
Tell me about a complicated man.
Muse, tell me how he wandered and was lost
when he had wrecked the holy town of Troy,
and where he went, and who he met, the pain
he suffered on the sea, and how he worked
to save his life and bring his men back home.
He failed, and for their own mistakes, they died.
They ate the Sun God's cattle, and the god
kept them from home. Now goddess, child of Zeus,
tell the old story for our modern times.
Find the beginning. (Emily Wilson, trans., The Odeyssey, Norton, 2018, p. 105)
しかもこれ韻文なんですよね。一読の価値ありです。
この英訳のイントロダクションで客人の歓待について論じるにあたり、ウィルソンは『オデュッセイア』の第9歌の次の箇所を参照しています。
私にとって忠実な伴侶である諸君、そなたらは暫くここに留まっていてくれ。私はこれから自分の船と部下と共に出掛けて、ここの住民たちが、どのような人間かー乱暴で野蛮な無法者たちか、それとも客を遇する礼を弁え、神を恐る心をもつ者たちであるのか調べてくる。(『オデュッセイア』松平訳、上巻、226ページ)
ここの「客を遇する礼を弁え」にも「stranger」と訳されるギリシア語が含まれています。ウィルソンはこの箇所について「オデュッセウスは、この二つの範疇をあたかも相互に排他的なものであるかのように提示する。客人(strangers)を進んで歓待するということだけで、その人物ないし文化が法に従う「文明的」なものと見なされるための十分な保証となるのである」と説明しています(23ページ)。
映画ではこの「文明」のテーマがさらに展開されているように見えました。『オデュッセイア』の世界は青銅の文明と映画では呼ばれています。この文明をしかしオデュッセウスは自ら壊してしまっている。ちょうど求婚者たちが壊しているように。なぜなら、オデュッセウスは木馬を送り込み、異国人からの贈り物を歓待するトロイの人々の行動を利用して、彼らを虐殺したからです。こうして、「客人(strangers)を進んで歓待する」ことから成り立つ文明は終わりを告げ、暗黒の時代が訪れるだろう、とされます。そしてオデュッセウスたちは歌の中にのみ残る存在になるだろうというのです。こうしてこの映画は客人を歓待するという叙事詩に元からあった主題を、トロイの木馬の挿話と結びつけ、それをさらに『オデュッセイア』の世界の崩壊と神話化と結びつけているわけですね。
こうやってオデュッセウスは消えていくわけですけど、それと呼応するように、最後の場面で、オデュッセウスははるか西に向かってまた航海に出ます。これはおそらく『神曲』からきているのでしょう。「地獄篇」でオデュッセウスはこう語っています。
我が息子への深い愛情も、老いた父への
敬愛も、ペーネロぺイアを幸せにしたはずの
誠実な愛も、
我が心に燃える炎に打ち克つことはできなかった。
私はなりたかった、世界の事物と
人の悪と、理想の徳を知り尽くした者に。
だから、私は飛び込んでいった、果てしなく広がる大海原のまっただ中へ。
ただ一艘の船に乗り、私を見捨てることのなかった
あの数少ない仲間達を連れ。
(ダンテ『神曲 地獄篇』第26歌、原基晶訳、講談社学術文庫、2014年、390-391ページ)
こうしてオデュッセウスはひたすら西に向かいついに煉獄山を眼にするのですが…という話になっています。このダンテの話と映画の結末部は、非常に大きな違いがあるのですけど、西に向かってまた航海していく点では共通しています。映画ではこれにより、オデュッセウスは退場し、そうしてホメロスの世界も終わるということになっているのでしょう。
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