ギリシア哲学

 アリストテレスの『形而上学』購読の授業に出ているのですが、(いつものことですけど)話されている内容がよく分かりません。今日はプラトンの『テアイテトス』という対話篇と、アリストテレスの実体という概念が話題になっていたのですが、最初のプラトンの方はともかく(その問題の意義はよくわからなかったけれど、内容は分かった)、後半のアリストテレスに関する部分はさっぱりわかりませんでした。もちろん、読書量が圧倒的に足りない、古典ギリシア語力がないのだから仕方ないのですが。。。
 しかしギリシア哲学というのは日本でもしっかりディシプリンとして確立されていて、専門家もたくさんいるため、内部で話がかなり通じてしまうところがあって、その分外からは入りにくいです。ギリシア語がいきなり会話で登場しますし。ぷろすへん構造とか。。。素人お断りのお店的な。。。
 どうして(ローマでもヘレニズムでも中世でも近代でもなく)プラトンアリストテレスをやるのか?と専門家の一人一人に聞いていってみたいということはあります。というかそういう問題を考える必要がなくなるというのがディシプリンとして確立するということの意味の一つなんでしょうけど。

→でもよくよく考えてみればギリシア哲学に限らず何でも同じような気が。。。そんな自分のやっていることに自覚的な研究者なんていないし、自覚的であるからいいというわけでもないし。でも自覚的でないと、専門外の人に理解してもらえないということはあるかもしれないです。