教育再生会議、第2分科会第3回会議議事要旨を読んで

 いま話題の教育再生会議についてです。これまでは何のチェックもしていなかったのですけど、議事要旨をもとにあちこちで話題になりはじめていることに触発されて、一つ議事要旨を読んでみました。

 読んだのは12月8日に行われた「規範意識・家族・地域教育再生分科会(第2分科会)」」の議事要旨です。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/kaisai.html

ここから閲覧可能です。

 以下気になった点について簡単にコメントを。但し書きなくページ数が記されている場合は、記事要旨のページ数を指します。なお、野依氏の「普通以上の子供は塾禁止」発言(23ページ)については、大きく報じられているので、ここでは取り上げません。

読書

 前半部分で、読書の重要性について大きく取り上げられていたのが印象的でした。

川勝委員:学校では、読書がとても大切である。テレビ、携帯から離れて、奉仕の精神や愛、優しさ、友情、勇気、なによりも親孝行を読書を通じて身に付ける。それには良書をどう提供するかがとても重要。(1ページ)

 このような読書の重要さは他の委員によっても共有されています。

葛西委員:読書はいいと思う。なるべく原典を読んだ方がいい。ハウツウものは読書のうちに入らない。(4ページ)

池田座長代理:読書であれば、毎朝15分音読させるとか、そういうことを次の段階では書きたいと考えている。(5ページ)

 おそらく読書に関する議論は今後も繰り返しあらわれるとおもいます。ただ、私はこの議論にかなりの違和感を覚えます。というのも、読書という行為に過度の期待が寄せられているように思われるからです。

 川勝委員が挙げている「徳目」が、少なくとも大きな原則として大切であることは私も否定しません*1。少なくとも(親や含めて)人を人として尊重することが大切なことであり、その大切さを教育の場で伝えることに意義があるということを私は認めます。

 ただそのようなことが本当に読書を通じて身につくのかどうかはかなり疑問です。

 「物語の読書」という言葉が表題にありますので、ここで読書と言われるときは、文学作品の読書が念頭におかれているのだと思います。

 しかし、文学作品というのはそれこそ大昔からあって、それが書かれた時代、地域、そして何よりも個々の書き手が持つ価値観が強く投影されています。時には現代では認められないような差別意識がむき出しになります(というか、その手の問題表現が出てこない方が少ない)。

 だから、私たちが大切だと考えている倫理的判断基準(徳目)を学ぶ媒体として文学作品が適切であるとは私には思えないのです。文学作品で徳目を学ぼうというのは、文学に期待しすぎていると同時に、文学をみくびっているとも思います。うまく表現できませんが、文学というのはもっと毒々しいものじゃないかなと思います*2

 テレビに対する敵意と同じように、読書への期待には安直さが感じられます。

徳目

 私には委員たちの議論は抽象的に過ぎると思います。実際、この分科会では徳目をあらわす抽象的な表現がたくさん出てきます。

愛、優しさ、友情、勇気、誇り、礼節、正義感、忍耐力、我慢

 私としてはこういう抽象的なレベルから議論をはじめるよりも、例えば次の門川委員の発言に現れる具体的な問題からはじめた方がよいと思うのです。

今、子供に一番大切なことの一つは、エイズに如何に感染させないようにするのかという事。また、薬害、携帯電話等のネット被害、加害もある。(4ページ)

 未成年が、性交渉によって病気に感染したり、ドラッグにふけったり、携帯電話を通じて詐欺にあったりするというのは、重要な問題で、教育の方面からも何らかの対策を取る必要があると思います(少なくとも必要があるかどうか検討する余地は十分にある)。こういった具体的な問題からはじめることで、もう少し地に足の着いた議論をできないのでしょうか。

 出席停止処分をめぐる箇所では、かなりしっかりとした議論になっていると思われるので、徳目といった価値観についての教育についても、まず具体例から議論をはじめてほしいです。

問題行動、出席停止など

 問題行動を起こす子供については、この会議の中でも一番長く議論されています。4ページから18ページまでがこの議論に当てられています。問題が切実で具体的なので議論になりやすいのだと思います。

 最大の論争点は出席停止措置についてです。ここにはほとんど解消不可能なジレンマが出現しています。

  • (特に義務教育の場合)問題行動(暴力を振るったりする)を起こす子供がいたからといって、彼らに対する教育を国が投げ出すわけにはいかない。しかし、出席停止処分は、その子供を放置してしまうことにつながりかねない。
  • しかし、暴力行為などのために被害を受けている子供がいる。問題行動を起こしている子供に配慮していることが、それ以外の子供への教育環境を損なうことにつながりかねない。

 この2つの問題のうちで、前者を重要視するのが品川委員で、後者を重要視するのが義家委員という構図になっています。

(品川委員の発言、発言の順序は変えてあります)

  • 出席停止にしても、アメリカのようにオルタナティブスクールがあればまだいいが、ない以上問題は何も解決されない。反社会的な行動へのリスクが高まるだけだ。
  • アメリカには出席停止にして学校と切れてしまってから、反社会的行動を取る子が増えたというデータがある。だから出席停止については非常に慎重に考えたい。
  • そういう受け入れ先があればいいが、現実にはそういう受け入れ先や指導先が無い。出席停止になれば放置されるだけだ。
  • 手続きを踏まずに出席停止にしているケースも現実的には結構ある。家庭にも居場所がない、学校も来るなでは、どうしようもない。

(義家委員の発言、発言の順序は変えてあります)

  • 私が勤めていた高校では謹慎処分がないと教育は成り立たなかった。
  • 出席停止はあくまで最終手段。それが出来ないなら、荒れている学校は教育できない
  • 悪質ないじめについては出席停止にすべき。
  • いじめられた子をどうするか、いじめで自殺する子もいる。そういう子はどうするのか。
  • 〔教育放棄を絶対にしてはいけないと主張することにより、〕その結果として、怯えている子を守らない事も教育放棄だと思う。
  • この子たちに怯えて、学校に来る事が出来ない子供たちもたくさんいる。その事実をどうするのか。
  • 公教育である以上、多くの子供の教育を守ってやることが必要。また、先生も命がけ、こういう子供たちは無茶苦茶やるので本当に恐ろしいと思う。
  • 〔出席停止について〕慎重にしなければいけないのは良くわかる。しかし、その子のせいで出席できない子供もたくさんいる。その子達がどうやって出席できるようにするのかも考える必要がある。

 これは難しい…。どちらが正しいという問題ではなく(どちらも正しいので)、処罰の基準と処罰後の対応をどのように設定するかという問題です。

 こういう議論が深められ、公にされて、ブログ上などでも議論が共有されるようになるならば、税金を出して会議をやる価値はあると思います。

家族の日について

例えば、「正月」と「盆」、及び春秋の「彼岸」を活用し、年4回の「家族の日」を設定する。4回の祭事の日には、国民的に影響のある人々や国民的知名度が高い人々が各自の家族とともに率先して「家族の日」の範を示す

 これには反対意見が続出しています。

海老名委員:改めて家族の日は不要。家族は元々あるもの。父の日、母の日、敬老の日等あるなかで必要ない。祝日は多すぎる。(中略)特に家族の日はいらない。(19ページ)

陰山委員:祝日をこれ以上増やすことは反対。(19ページ)

葛西議員:これ以上家族に関する祭日を増やして実効性を伴わないと揶揄の対象になる

 はっきりいって、「国民的に影響のある人々や国民的知名度が高い人々が各自の家族とともに率先して『家族の日』の範を示す」という提案の時点で、揶揄の対象になる可能性は高いと思います、はい。

テレビと有害情報のシャットアウト

川勝委員:また、できる子を伸ばす必要がある。そういう事が出来るのは葛西さんの学校のようなところだろう。テレビを禁止し、有害情報はシャットアウトし、土日も帰さない。大家族、擬似家族のようなものになっている。(28ページ)

野依委員:各家庭とも所有するテレビを限る、そして、チャンネルは親がコントロールするとすれば、有害番組は見なくなる。(28ページ)

中嶋委員:テレビの悪影響は本当に考えたほうがいい。(28ページ)

テレビ、テレビゲーム、メール、携帯電話の使用を制限し、人間同士の触れ合いにより社会性を養う。(「子供の「心の成長」のために(議論のたたき台)」、8ページ)

 テレビは不評のようです。

悪口

 どうしても悪口になってしまうのですが、最後に意味不明だったり、笑ってしまった発言を紹介します。

小谷委員:手をつないで、ハミングをすると最初はバラバラでも、意識を通わせているうちに、その音が一つになる。大きな気の力、エネルギーが爆発する。ハーモニーから友達間のフレンドシップも深められるのでは。

 「大きな気の力、エネルギーが爆発」…。

 ドラゴンボールの愛読者としては、反射的にこういうシーンが浮かんでしまうのですが…。こ、これは危険ですぜ。ギャリック砲も吹き飛ばすほどの(ry

 つまんない冗談はさておき、いちおう有識者会議なんだから、もう少し内実を伴う発言をしてほしいと思います。2ちゃんねるでこんなこと書いたら、ぼこぼこに言われますよ…。

 勢いで小谷委員の発言を追います。

ここでは、ここでは、「30人31脚」と「ノルディックウォーキング」を提案している。「30人31脚」はテレビで見て、非常に感動した。30人が息を合わせないと進めない、ここから助け合うことを学べるので、学校でもすぐ取り入れたらいいのでは。(2ページ)

 なんだ、委員の方もテレビから学んでいるじゃないですか。しかし「テレビで見て、非常に感動した」って視聴者からのアンケートじゃないんだから…。

 さらに浅利委員と小谷委員がまとめた資料には、次のようにあります。

人は必死に頑張って頑張りぬいて、自分の限界に達することができたとき、「無」の状態になり、自然に「生きている」実感を喜び、周りへの感謝というのがあふれてくる。(「子供の「心の成長」のために(議論のたたき台)」、4ページ)

 ひょ、ひょっとしてこの「無」の状態というのは、某テニソ漫画の影響でふか?まあそれはともかく、ここも言葉が浮いてしまっている印象を受けます。

全体として

 変な議論もある。意味不明な意見もある。その場の思いつきとしか思えない発言もある。議論があちらこちらに飛ぶもんだからあとからまとめるのが大変。

 と、まあいろいろと文句は付けられますが、思ったほど悪くないというのが正直な感想です(なんて書くと偉そうなんですけど…)。もっとおぞましいものが出てくるのかと思っていたのですが、実際に読んでみるとけっこう考えさせられます。

 ただここから先に議論を進めようと思えば、どうしても資料や具体的な調査に基づいたやり取りが必要になります。今以上に各委員が会議のための準備をしてくる必要があると思います。

 逆に、決められた日にやってきて従来の持論を述べるだけなら、これ以上やる意味はないです。

*1:こういう議論は方向性を間違うと、とんでもないことになりそうですけど。

*2:この表現はちょっと文学に肯定的過ぎるか。