「ユストゥス・リプシウスにおける世界の魂」 Hiro Hirai, L’âme du monde chez Juste Lipse

 id:Freitagさんのリプシウス論文がほぼ完成しました。素晴らしい出来です。感動しました。リプシウスを扱った論文でこれほど意義深いものを私は読んだことがありません。

 古典哲学専攻のロングが軽視し、初期近代の研究者たちが見逃しているローマ哲学の神学的側面。この側面がリプシウスの自然哲学の中で大きな役割を果たしていることが、緻密な文献学的作業を通じて明らかにされています。

 リプシウスはギリシア語の資料をあまり読めなかったために不正確なストア派理解に達したというロング(そして古くはカソーボン)の批判があります。Freitagさんの論文はこの点を引き受けつつも、ラテン語資料の用い方にこそリプシウスの独創性があるとします。そして、その点を考慮することではじめて、リプシウスが行う資料操作の意義を当時の思想状況に位置づけることができると(暗に)論じています。

 また、初期近代の研究者たちは、リプシウスは折衷主義的な資料操作によって、ストア主義とキリスト教徒を調和させようと試みたと教科書的に書きます。しかし、研究者たちはリプシウスが用いる資料の細部に分け入ることをしないため、当の古代資料の性質を吟味できません。そのためリプシウスが行う資料操作の背後に哲学史上意味のあるつながりがひそんでいることに気がつかないでいました。Freitagさんは古典学者しか読まないような研究書の消化をもとに、このつながりに目をつけます。

 現代の文献学的水準から見るとリプシウスのストア派理解は不正確だというだけでは歴史学的に不毛なんだけど、だからといって文献学的作業をすっ飛ばして教科書的な理解に飛びついても先に進まない。このジレンマが解消されているのです。

 しかもその解消の方向性は非常にポジティブです。なぜって、初期近代の神学的議論においてローマの哲学がどのような役割を果たしたのかという大きな問題をFreitagさんの研究は提起しているからです。ギリシア哲学の継承という側面に偏重した哲学史の記述は修正しないといけないのかもしれません。また古代のストア派研究者たちにも、後期ストア派はその歴史的重要性に鑑みてより深い研究に値するのだとボールを投げかけているようにも思えます。

 などといった大言壮語的なことは禁欲的なFreitagさんは決して書きません。でも読む人が読めばこの論文の意義は明らかです。

 しかし論文製作途上でセネカの特定のパッセージに大変なこだわりを示されていて、どうしたのだろうと思っていたらこういう鉱脈を掘り当ててくるとは。なによりその嗅覚に脱帽です。