三谷,日本の大学は世界の中にあるのか

 東京大学駒場キャンパスでは教養学部報という冊子を毎月出しています。その最新号である第516号に三谷博氏が「日本の大学は世界の中にあるのか」という記事を寄せられています。

 三谷氏はこの1年間ほどハーヴァードに滞在して研究をしており,帰国したところ専門の日本・東アジア研究に関連する本が40冊も献呈されてきており驚いたそうです。その理由の一つは,「ハーヴァード滞在中日本の学界をほとんどまったく意識しなかった」から。つまり日本では三谷氏に送られてきただけでも40冊にも登る研究書が出されているにもかかわらず,その成果がハーヴァードに届いて活用されたり紹介されたりすることは一度もなかったということです。

 この現状を踏まえて,三谷氏は次のように述べます。

 もし日本の大学がなくなったとして,世界の学会は困るだろうか。

 [理系はそうだろう]。しかし文系はそうではない。日本研究と中国前近代の研究者が困るのは確かだろうが,それは学会の中では氷山の一角に過ぎない。(中略)

 日本・東アジア研究という特殊な分野以外では日本なしで十分にやっていける,というより,なしでやってきたし,これからもそうであり続けるだろうと考えられているのである。

 日本の大学で,「先進国」の学者の業績に言及することなしに授業ができないのと,何という対照であろうか。(中略)

 問題は何か。日本の文系の学問がすべて日本語で行われ,したがって世界からは無に見えていることである。(中略)

 日本の文系大学人は,外部の知恵を借りながら,自らは競争しなくて済む(中略),この居心地の良い環境に自らを閉じこめてきたのである。

 人文科学にたずさわる者なら誰もが知っていることではあります。でもこう改めてはっきりと文章の形で書かれるとくらーい気分になりますね。

 とはいえ,私やこのブログを読んでいるかもしれない研究にたずさわる方々にできることは,まずは自身の研究成果をより広い評価・批判の文脈に出していくための努力をすることだけですね。大変ではありますけど,お互いがんばりましょう。道は閉ざされているわけではないのですから。