ルネサンスの人相学

  • 「後期ルネサンスの人相学の論理」Ian Maclean, "The Logic of Physiognomony in the Late Renaissance," Early Science and Medicine 16 (2011): 275–95.

 人間の身体的特長からその人の身体状態や気質を判断する人相学というと、何かいかがわしいものと思われるかもしれません。しかし実はこれはすでにアリストテレスが『分析論前書』という著作の中で取り上げている問題です。

ところで人相を観ることが可能となるのは、もしひとが、自然本来のものたるかぎりの諸性情は、身体と精神を同時に変化させると承認を与えてくれるならば、である。・・・そしてもしこのこととともに、また一つの〔自然生来の性情〕に一つの微標が対応してあることに承認が与えられ、かつわれわれが〔動物の〕各類に特有な性情と微標を容易することが可能だとすれば、われわれは人相を観ることが可能となろう。なぜならもし〔動物の〕なにかるひとつの不可分な類に特有なものとして現前している性情が、たとえば獅子どもに勇気がのごとく、存在するとすれば、必然のこととして〔そこにはそれに応ずる〕なにかある一つの微標がなければならぬからである。・・・そして今これを、「身体待った分の大きいのを持っている」とせよ。『分析論前書』2巻27章

 相変わらずのアリストテレス先生です。ともかくここで彼は人相学を論理学の問題として述べています。13世紀以降人相学が西洋の学者たちに論じられるようになったときに問題となったのは、人相学で用いられている論理とはいかなる性質のものなのかということでした。マクリーンによれば、微標というのは(上記のアリストテレスの例とは対照的に)ひとつだけではある性質の存在を保証しません。複数の微標がそろってはじめてある性質が存在するだろうという推論の確からしさが上昇します。これは微標があるからといってそこからある性質が存在することを確実には示せないし、また逆にある微標がないからといってある性質が不在であるということも確実には示せないということです。この点で微標からの推論というのは蓋然的なものにならざるを得ず、実際にルネサンスの哲学者や医学者たちは人相学で用いられる論理学というものをこのような種類のものとして理解する傾向を有していたとされます。