スピノザによる隠蔽 Van Bunge, "Van Velthuysen, Batelier and Bredenburg on Spinoza's Interpretation of the Scriptures"

  • Wiep van Bunge, "Van Velthuysen, Batelier and Bredenburg on Spinoza's Interpretation of the Scriptures," in L'hérésie spinoziste: La discussion sur le Tractatus theologico-politicus, 1670-1677, et la réception immédiate du spinozisme: Actes du colloque international de Cortona, 10-14 avril 1991, ed.  Paolo Cristofolini (Amsterdam: APA-Holland University Press, 1995), 49–65.

 この論文でVan Bungeは、スピノザの『神学・政治論』の初期の批判者である、フェルトホイゼン、バテリエ、ブレーデンブルクが、スピノザは同書で自身の決定論を隠蔽しつつ前提にしていたと指摘していたことを示している。

 個々の論点のうち興味深いのは、フェルトホイゼンが、聖書が時として大衆の理解に合わせて語るという考えを認めていなかったという指摘である。典拠はフェルトホイゼンの1655年のパンフレットの9ページから10ページにかけてである。以下で読むことができる。

 

Bewys dat het gevoelen van die genen, ... - Lambertus van Velthuysen - Google ブックス

 

 どうやらフェルトホイゼンは、「聖書が時として大衆の理解に合わせて語る」ということを、「聖書の言葉をその状況(omftandicheden. それがいつ、どこで誰によって書かれたか)を含めて考慮した時に、聖書が大衆が理解している事柄を真実として述べたり、教えたり、同意したり、否定したりする」と理解した上で、そのようなことはないと否定しているようである。このことをフェルトホイゼンは、聖書が家畜に知識や希望や期待を帰していることを例に説明する。確かに大衆は家畜の外的な行動を見て、それが一定程度人間の外的行動と類似していることから、家畜にも人間と同じような知識や希望や期待があると考えている。しかし聖書の場合、その状況を考慮するなら、単に家畜が人間と類似した外的な行動を行っていると述べているだけで、家畜に知識や希望や期待があるということを教えたり、同意していたり、否定していたりするのではないことが分かるのだという(フェルトホイゼンはデカルト主義者で、家畜を機械と見なしている)。