スピノザによる1673年のユトレヒト訪問 Gootjes, "Spinoza between French Libertines and Dutch Cartesians"

 この論文でAlbert Gootjesは、フランス占領下のユトレヒト訪問への1673年のスピノザによる訪問について、次のことを示している。

 スピノザユトレヒト訪問は、ストゥープによって主導されたものである。ストゥープは、ユトレヒト在住のデカルト主義者であるグラエヴィウスとフェルトホイゼンと交流を深める中で、スピノザの哲学への関心を深めた。そうしてスピノザを招くために(グラエヴィウスの勧めに従って)コンデ公から招待状を獲得し、スピノザユトレヒトへ招いた。スピノザの側は、コンデ公を通じて『神学・政治論』をフランスでも普及させたいとの思惑から、ユトレヒトに赴いた。

 ユトレヒトへの訪問中、スピノザは結局コンデ公には会えなかったものの、ストゥープやリュクサンブール公爵といったフランス側の人々や、グラエヴィウスとフェルトホイゼンと話をした(またニュースタットとも会っている)。フランス人との食事の席でスピノザは、彼の哲学についてある程度立ち入ったことを述べたことを示す記録がある。またグラエヴィウスとのあいだでは、当時ウィティキウスがライデンで行っていた討論について話していた記録が残っている。

 スピノザの訪問は、これまで彼の親友しか知り得なかった彼の哲学教義について、ユトレヒトの人々が一定程度の知識を持つことを可能にした。これが原因で、1675年8月22日ユトレヒトのワロン教会の長老会が、スピノザが誤ちと無神論を広めることを防ぐように、教会に対する要請を発した可能性がある(長老会はスピノザが著作と会話の両方で不敬虔なことを教えているとしている)。この要請はスピノザが『エチカ』の出版を断念した直接の背景となっている。

 もう一つの結果は、スピノザが訪問後、彼の哲学への反対にもかかわらず、グラエヴィウスとフェルトホイゼンに友好的な態度を示していることである。スピノザデカルト主義者たちを「愚かなデカルト主義者たち」と呼んだことから、彼らの間の対立が強調されてきた。しかし彼らの間には同意できる問題があり(たとえば宗教指導者の権威はどこまで及ぶか)、相互の尊重があった。