中世キリスト教の世界 アッポルド『宗教改革小史』第1章

宗教改革小史 (コンパクト・ヒストリー)

宗教改革小史 (コンパクト・ヒストリー)

  • K・G・アッポルド『宗教改革小史』徳善義和訳、教文館、2012年、15-80ページ。

 宗教改革史の概説である本書は、中世のキリスト教の解説からはじまる。そのさいに力点が置かれるのが「中世のキリスト教は統一されていたというよりも混沌としていた」ということである(21-22ページ)。教皇を頂点にしたヒエラルキー構造という統一は、当初は存在していなかったし、存在するようになっても多分に理念的なものであった。混沌はいくつものレベルで存在した。まず各地の教会が分裂していた。いくつもの有力教会が、ローマ帝国崩壊後の中心を失った地域で、それぞれのやり方で信徒たちを組織化していた。安定した組織化のためには、世俗権力からの庇護が不可欠であった。司祭たちは君侯の事実上の臣下となった。こうして教会は封建社会に取りこまれた。

 このように世俗に深くとりこまれた組織教会は西欧のキリスト教化に大きな力を発揮できなかった。この方面で目覚ましい働きをしたのが、スコットランドアイルランドからやってきた修道士たちであった。彼らの生き方はまさにキリスト者にふさわしいものであるように思われ、布教にあたって大いに効力を発揮した。また彼らは個人レベルでの告解・償罪という慣習を浸透させ、中世の信仰生活を大きく規定した。

 一方組織化された教会のうちにも改革の機運がもりあがった。教会を世俗から解放しようというのだ。これによって強力な教皇制がもたらされた。教会が世俗の王によって総べられていてはならない。人の国ならぬ神の国を統治すべきは聖職者でなければならない。教皇レオ九世による改革により、ローマの司教座の長の地位は、枢機卿団によって指名された者が占めるようになり、教会外権力による使命は不可能となった。さらに教皇指名モデルを全聖職者に拡張し、あらゆる叙任権を君侯から剥奪することが試みられた。レオやグレゴリウス七世によるこのような改革は、教会を世俗から解き放ち、よりキリスト教的に、すなわちより修道的にしようとするものだった。ここから聖職売買や聖職者によるかくし妻との暮らしもまた告発された(だが根絶はされない)。こうして強力となった教皇制度は、中央集権的体制を整え、それを教会法によって制御した。教皇の権力の源泉のうち重大なものの一つは秘跡への参加の許可と不許可を彼が決定できるということであった。これにより彼は破門したものを、キリスト教界の外に置くことができた。これは裏を返せば、教皇によって組織された集団こそが、キリスト教界であるということを意味した。

 強力な教皇制はしかし長くは続かなかった。一つしかないはずの教皇位はやがて分裂した。普遍的教会の理念は疑念にふされた。この衰退と連動していたのが、教会を世俗権力から解放したことにより、教会そのものが世俗権力へと変質してしまったという事態であった。封建制への組み込まれから身を離すつもりが、それにより封建制の主なプレイヤーになってしまった。教会はいまや広大な土地と莫大な財産を所有していた。このようなあり方のどこにイエス・キリストの面影があるだろうか。教会の世俗性は、人口の増加と都市の成長とにともないますます増大するばかりだった。

 ここから財産を所有した組織化された教会とは別の信仰形態のあり方を求める運動が数多く起こることになる。それらの多くに共通する特徴は、財産の所有を退け、清貧の誓いを立てるというものであった。そのうちのいくつかは、教会の公認を受け、正統な組織として存続することになった。ドミニコ会フランシスコ会といった托鉢修道会はその例である(とはいえ教皇との対立がなかったわけではなく、たとえばフランシスコ会の財産問題は14世紀初頭に大きな論争の種となった)。しかしワルド派やカタリ派は排除され、とくに後者はやがて壊滅した。グレゴリウスの改革精神が衰えた時代となっては、組織教会のエリートたちは教会による富と財産所有の問題をとりあげようとしなかった。彼らは多くの場合修道制に根ざした、古代の清貧な使徒的生き方に回帰しようとする運動を警戒した。「言ってみれば、『異端』という言葉はキリスト教を斥けた人々よりも多く、厳しすぎるほどにキリスト者であろうとしたように見える人々に適用された」(77ページ)。

 こうして西方教会は、キリストの体としての組織体としての教会という要請と、霊的に模範的なキリスト者でなければならないという要請の緊張感をたたえながら、1500年を迎えるのである。