スカリゲル論駁 #1 Schegk, De plastica seminis facultate, bk. 3, #4

  • Jacob Schegk, De plastica seminis facultate libri tres (Strasbourg: Bernard Jobin, 1580), sigs. G7r–G8r.

 スカリゲルは『顕教的演習』のなかで次のように述べている。

だが多くの困難と異議により、この能動知性というのはあるいは余計なものであるか、あるいはこの知性だけがあって別の質料知性は必要ないか、あるいはひょっとしてそのような知性の想定は馬鹿げたものだと考えられることになる。というのももし事物としてこの能動知性が質料知性と同じであり、定義によって異なるのであれば、このような能動知性はまちがいなく余分なものとなるだろうから。(At multae sunt difficultates, atque objectione, quibus agens iste intellectus, vel superfluus, vel solus, sine alio materiali, vel etiam fortasse ridiculus sit. Nam si unus est cum materiali reipsa, differt autem definitione, supervacaneus erit sane)sig. G7v [EE, 307.18, 402r]

 この主張にたいしシェキウスは反論する。能動知性と質料知性は事物として、すなわち realiter に互いに異なる。この異なり方は、定義によって異なる(すなわち formaliter に異なる)という以上の違いである。それは essentialiter に異なっているのだ。スカリゲルは能動知性と受動知性が同一にしてひとつのものだと主張することで、アリストテレスにも反しているし、自説を正当化する十分な論拠もしめせていない。

 まずアリストテレスの見解からみていこう。私たちの知性が感覚や表象なしではなにも思惟できない。思惟というのはこれら感覚や表象からえられたものからあらゆる付帯性を分離し、事物の形象(これをシェキウスは、単純なウーシア、ないしは単にロゴスとも呼ぶ)をつくりだしたうえで、それを理解するという営みである。では形象を質料や付帯性から分離するのはどんな力なのか。形象をつくりだす力はそれを受けいれる力と同じなのだろうか。それとも異なるのだろうか。スカリゲルはこれら二つの活動は realiter に同一の精神が担うと主張している。しかし以下でみていくように、それらは realiter には異なるが、essentialiter には同じである精神によってつかさどられているのだ。

 理解するとは人間に固有の「作用を受けた状態」(pathos)である。ではどのように人間が理解する(思惟する)かといえば、その原因は二重に考えねばならないとアリストテレスは書いている。ひとつは形相であり、活動実現状態(entelechia)であり、これは霊魂自身、あるいは霊魂のうちの単純で能動的な精神であり、あるいは作出的な力ともされる。もう一つはこの精神の基体となるものであり、こちらもまた精神である。ただしそれは感覚的霊魂と複合物を形成している。この精神とは受動知性であり、そのうちに能動的な精神がつくりだした思惟されたエイドスが宿るのである。

(続く)