スカリゲル論駁 #2 Schegk, De plastica seminis facultate, bk. 3, #5

  • Jacob Schegk, De plastica seminis facultate libri tres (Strasbourg: Bernard Jobin, 1580), sigs. G8r–H1r.

 私たちが思惟するにあたっては、形相因・作用因にあたるものと、器官として機能するものの二つがはたらく。このうち前者が能動知性であり、後者は感覚する能力である。なぜこの二つが必要かというと、能動知性という単純な精神(mens simplex)は、知的形象を受けいれる基体として機能できないからである。基体として感覚能力(potentia sentiendi, facultas sentiendi)が必要となる。これは感覚でも同じだ。感覚霊魂自体は、感覚のエネルゲイア(感覚形象のことだろう)を保持できない。それは基体としての脳に受けいれられる。この脳が道具的原因として、感覚を可能にしている。よって形相と、形相と基体の複合体は realiter に区別されなくてはならない。というのも後者の複合体のうちに、前者の形相が、認識であれ感覚であれ一定の状態(pathos)を生みだすからである。

 同じことはほかの多くの事物にいえる。たとえば水によるなにかを湿らせる力の原因は水の形相である。しかし水の形相はその力の基体ではない。また磁石が鉄を引きつける力についても、その力を生みだすのは磁石の形相であり、それは形相と質料からなる複合体からは区別されねばならない。栄養摂取の場合でも、栄養摂取霊魂の道具であるところの肉のうちに、西洋摂取霊魂が栄養摂取状態を実現する。

 シェキウスはさらにアリストテレス『霊魂論』第2巻第2章414a4–14をひき、次のように結論する。

アリストテレスのこのような言葉から次のことが明らかとなる。すなわち私たちはふたつのものを使って思惟する。ひとつは霊魂の力であり、これは形相のようなもの、すなわち単純な精神である。もう一つは霊魂の感覚する力であり、それはいわば質料であり、現実態としての霊魂の基体である。この感覚する力抜きでは、精神は人間のうちに思惟のためのエネルゲイア[知的形象]を保持できない。第三に両者からなる複合知性がある。これをさきに私は受動精神、ないしは複合精神と呼んだのであった。(His ex Aristotele recitatis liquet, quo intelligere dicamusr, duplex esse, unum esse, potentiam animae, quae sit tanquam forma, nempe mentem simplicem, alterum, facultatem animae sentientem, quae sit quasi materia, et subiectum ipsius, tanquam ἐντελεχείας, ut sine qua energeian intelligendi mens in homine praestare nequeat. Tertium, compositum intellectum ex utrisque quod patitentem seu compositam mentem supra appellavimus.)sigs. G8v-H1r

 ここからシェキウスは能動知性と受動知性が事物としても realiter にも同一だとするスカリゲルの見解は間違いだと結論づける。というのも単純なものと、複合的なものが同一のものではありえない。ここからスカリゲルの結論は理にもかなっていないし、アリストテレスにも反したものであることがわかる。