大貫隆氏の persona 語源解釈について

いま、〈古典〉とはなにか――クラシカル・ターンを問う (UTCP Booklet 2) | 刊行物 | University of Tokyo Center for Philosophy

 上記サイトの西洋編の部分で大貫隆氏が次のように述べています.

ペルソナ(persona),ペルソナーレ(personare)は,ペルはスルーで,ソナーレはソナーですから,「それを通して音が聞こえてくる」ものです.仮面においては後ろにいる人の声が聞こえてくる.だから,ペルソナーレとは機能的な言語であり.それが仮面となって,そこから人格というものになっていくわけです.(65ページ)

 この語源論についてメレアグロスさんが次のように異議を唱えられています.

対談では,これ〔personaというラテン語〕はpersonareと関係があり,「そこを通して(per)音(sonus)が出てくるもの」ように解釈していますが,長短を正確に表記すれば,personaはペルソーナであって,音のsonusはソヌス,personareはペルソナーレです(そもそも意味も,「そこを通して……」などではなく,「反響する」等の意味です).つまり,ペルソーナは少なくともラテン語の「音」とは関係はないのですね.ペルソーナの語源自体は,はっきりはわからないものの,エトルリア語起源とされているようです.

ラテン語徒然 いま、〈古典〉とはなにか――クラシカル・ターンを問う

 メレアグロスさんには言うまでもないことを補足しちゃいますけど,大貫氏の語源論には全く根拠がないわけではありません.ルイス・アンド・ショートを見ると,Gabius Bassus という古代ローマ人が persona は personare から来ているという語源論を唱えていることがわかります(Gellius, 5.7.1).問題の個所は以下の通り.

Lepide mi hercules et scite Gavius Bassus in libris, quos de origine vocabulorum composuit, unde appellata "persona" sit, interpretatur; a personando enim id vocabulum factum esse coniectat. 2 Nam "caput" inquit "et os coperimento personae tectum undique unaque tantum vocis emittendae via pervium, quoniam non vaga neque diffusa est, set in unum tantummodo exitum collectam coactamque vocem ciet, magis claros canorosque sonitus facit. Quoniam igitur indumentum illud oris clarescere et resonare vocem facit, ob eam causam "persona" dicta est "o" littera propter vocabuli formam productiore."

 役者が仮面を被ります.仮面によって声が出て行く場所が限定されます.結果として声が分散せずに,よく響くようになります(personare).Bassusによれば,ここから persona という単語が来たことになります.で,最後に単語の形の都合で「ソーナ」と長くなったと.

 ただこの語源論見るからに怪しいですよね.古代によくあるインチキ語源論ではないかと思えてしまうわけです.実際,メレアグロスさんが指摘されているとおりOLDには persona の語源は「エトルリア語起源かもしれない」と書かれているだけです.Bassusの見解は紹介されていません.おそらく現代の言語学の知見からすると personare→ persona 説は無理筋なのでしょう.

 大貫氏がこのような語源論に全面的に依拠して次のように論じてしまうのは,文献学的に問題があると私は考えます.

たとえばニュートンは近代科学の権化ですよね.その彼を支えたモチベーションとは,自然は神そのものであり(それをペルソナといっても構わないもので,その神の声が自然から響いてくる)その声を聞き取ろうとしていたわけです.比喩的に言えば,自然はペルソナであり,それを聞き取りたいと思うのが近代科学におけるモチベーションであるとは言えないでしょうか.(65ページ)