ルター『キリスト者の自由』

キリスト者の自由―訳と注解

キリスト者の自由―訳と注解

 言わずと知れたマルティン・ルターの代表作(1520年)です。表題からも分かるとおり主題は自由についてです。ルターによるとキリスト者は誰からも自由であると同時に、すべての者に対する奉仕者である。この一件相反する命題はどう理解すべきか。

 まず第一の命題は、キリスト者は神を信仰することによって義とされ自由となるということを意味します。ここで人間はいかなる行いによっても決して義とはされないという有名な主張が登場してきます。

愚かにも、よい行いによって義となり、自由となり、救われ、キリスト者となろうと考えるならば、すべてのものと一緒に信仰をも失ってしまうであろう。ちょうど一切れの肉を口にくわえながら、水の中の影に跳びかかって、肉も影も失ってしまった〔イソップ寓話の〕犬と同じことになる。

したがって律法を遵守することは人を自由なキリスト者にすることに何ら貢献しないということになります。

 しかしそうすると、信仰さえあれば何をしてもいいのか、という考えが当然出てきます。これに答える中でキリスト者はすべての人に対する奉仕者であるという第二の命題が正当化されます。ルターによれば、なるほどいかなる行いも人を義とすることはなく、ただ信仰だけが人を自由にします。しかし同時に人間が人間としてこの世界で生きる以上は、さまざまな人と共同で生きざるをえないこともまた事実です。この時、信仰により義とされた人は、キリストが対価を得ることなく人間を救ってくれたのと同じように、なんの対価を求めることなく隣人に奉仕しなければならない。というよりも信仰が真実であるならば、このような隣人に対する真実の愛が溢れ出るはずであるとされます。

 興味深いのはこの奉仕すべき隣人のなかに、「教皇や司教や修道会や教会諸施設や諸侯君主たちの無数の命令や法律」が含まれていることです。こうして自由なキリスト者は「教皇や司教や一般の人々や修道会の兄弟たちや諸侯たちのために、模範と奉仕とをなし、それをやり抜こうと思」うことになります。地上的権威への服従という思想が現れているのですね。