中世哲学と検閲 Putallaz, "Censorship"

The Cambridge History of Medieval Philosophy 2 Volume Boxed Set

The Cambridge History of Medieval Philosophy 2 Volume Boxed Set

  • François-Xavier Putallaz, "Censorship," in The Cambridge History of Medieval Philosophy, ed. Robert Pasnau (Cambridge: Cambridge University Press, 2010), 99–113.

 中世哲学についての最新の概説書から、検閲を扱った章を読みました。全体的に奥歯にものの挟まった物言いが多くて、この問題への接近の難しさを感じさせます。すでに1100年代の中頃にはアベラールが断罪されていたものの、やはり思想にたいする統制といえば13世紀以後のアリストテレス哲学にたいするものが有名です。1210年、31年と大司教教皇があいついでアリストテレスの自然哲学関連の書物をパリでの教育で用いてはならないと命じたにもかかわらず、スタゲイラの人の思想の流入はとどまるところを知らず、ついに1255年にはパリ大学の学芸学部のカリキュラムにアリストテレスの著作の大部分が取りこまれました。

 しかしだからといって学芸学部の教師たちへの不信の念が消滅したわけではありませんでした。1267年にボナヴェントゥラは世界の永遠性、知性の単一性、星辰による決定論というアヴェロエスから引き出された教えは、キリストの十字架上の死の意味を空洞化させるものであると非難し、このような学説が哲学探究を自己目的化させた教師たちにより支持されていると危惧の念を表明しています。

 ここで有名なタンピエが現れます。パリの司教をつとめていた彼は1270年の10月に13の命題を断罪し、それを支持したものは破門するとしました。これが彼を期待するほどの効果をあげたかといえばまったくそんなことはなかったというのが現実のようです。ただ1275年頃にある学外学部の教師が、「哲学者たちが弾圧されて、多くの人々が哲学を実践することができなくなっている」と嘆いているので、彼の施策が何らかの圧力を学芸学部に行使した可能性はあります。

 いずれにせよタンピエは1277年の3月7日に、再び禁令を、それも今度は非難する学説の数を219個にまで増大させたうえで布告しました。この禁令が具体的に誰をターゲットにしていたのか、またその作成の背後に当時の教皇使節教皇本人の意向がどの程度反映されていたかということは専門家のあいだでも議論があったり、まだ明らかになっていない点があったりするようです。確かなことは、それがかつて著名な科学史デュエムによって主張されたほど重要なインパクを持ったとは考えられないということです。

 もう一つとりあげられているのがオッカムとその哲学への反発です。私にはうまく理解できていない点なのですけど、オッカムがアヴィニョンで裁判にかけられていたときに問題視されていたのは、彼の哲学学説そのものというよりも、その思想が神学的にはペラギウス主義に親和性を持ってしまうという危惧であったようです。また1339年、40年にオッカムの哲学をオッカムの学説を教えることを禁じる規則がパリ大学で出されました。この措置がとられた本当の理由もよくわからないそうです。ただオッカムの哲学がアリストテレス哲学の一種類ではなくて、アリストテレス主義を代替するものとみなされたがために危険視されたのではないかと著者は推測しています。

 最後に著者は、繰り返された検閲や禁令というのは、思想の自律性が抑えようにも抑えられなかった中世の実情の反映として解釈されるべきではないかという近年の論者の見解を支持しています。ただしそのような思想の自律性や自由というのは、中世においてはそれ自体として目標とされていたのではなく、あくまで真理に到達するための有効な手段として価値を認められていました。自由それ自体が獲得されるべき目標とされている現代との違いだとされています。

追記

 オッカムとペラギウス主義については嶋崎さんがエントリを立ててくれました。