『医学総合事典』と『百科全書』、道徳論、経験主義

 ロバート・ジェームズの『医学総合事典』(1743–45)のフランス語訳(1746–48)に焦点を当て、その『百科全書』との関係、同時代フランスの道徳論への影響、そして『事典』自体にあらわれている経験主義の特質を論じた作品です(リンク先からダウンロードすることができます)。古今の医学関連分野の知見を網羅的に集成したジェームズの『医学総合事典』(とそのフランス語訳)は、当時の他の専門事典と比べても見逃せない特徴を持っています。その翻訳は『百科全書』の最初期の構想に携わったのと同じ事業者、翻訳者の手によって進められていました。たとえばディドロは少なくとも一年間は『医学総合事典』の翻訳(と編纂?)を『百科事典』企画の立ち上げと並行して行っています。両者とのあいだには英語からの翻訳という共通の特徴がありました。現在ある『百科全書』はもちろん翻訳というよりオリジナルの作品となっています。しかしそれは当初チェンバーズの『サイクロピーディア』の翻訳として企画されていました。したがってジェームズの翻訳に少し遅れる形で企画がたてられた『百科全書』の推進者が『医学総合事典』を意識するのは自然なことでした。『百科全書』の第一趣意書にはそれがジェームズの事典とは異なり、単一の学ではなく諸学を扱う普遍性を備え、しかもその個々の項目、たとえば医学や解剖学(つまりジェームズが扱っていた領域)についても完全な知を提供するものだと宣言されています。

 このような出版時期の近さと企画の並行性から来る『百科全書』との関連性と並んで、『医学総合事典』は当時の道徳論の変容と歩調を合わせるような理論的前提を含んでいました。そこではヒポクラテスに依拠して、生体の「動物経済」を司り自己保存を可能にする「力」「自然本能」が措定され、それが創造主によって生物に与えられた「神感 inspiration」と呼ばれています。この思想は当時ポープの『人間論』の仏語訳などを通じて広まっていた道徳を理性ではなくむしろ自然に備わる原初的な本能の水準から基礎づける考え方と一致していました。ホープの本に詳細な書き込みを残したディドロが『医学総合事典』の翻訳に関わっていたことは、彼がホープから学んだことをジェームズの事典に見出したことを強く推測させます。

 このような新たな道徳論との一致と同時に『医学総合事典』は17世紀以来の医学と自然誌で特に顕著に見られるようになった経験主義を体現したものでもありました。それは古代以来伝えられている医学や自然についての記述を収集し吟味し整理することと、1500年代の後半から発達した医師や自然誌家たちによる個別の症例や個物の観察記録の総体を結合させた特質を持っていました。当時は「透明な主体が視覚を通じて裸の世界と対峙するという経験主義的な観察プロセスの構築過程には、文献批判と注釈から構成される古事学=文献学的な媒介とネットワークがなお厳然としてそびえていた」(60頁)。この意味でジェームズの事典の特質をポマタやシライシにならって「学識ある経験主義者」のそれと呼ぶことができると著者は論考を結んでいます。

メモ

  • ポープの『人間論』について。「本能や情念はその本性上善であって、その背後には神の摂理が直截に見いだされるのであり、本能的な傾向性に導かれた情念の非主体的で純粋な力の場こそ――そこでは存在の階梯の理論に従って人間と動物の境界は限りなく曖昧にされる――が、個の自己保存と全体の調和という、ホッブズ以来切断された二つの次元の接続を論理的に可能とする。このようなポープの議論の結構に見られる反=ホッブズ的、理神論的な性格は、この時代の少なからぬ青年たちを捉えた考え方であった」(55頁)