形相付与者の新解釈 Richardson, "Avicenna and Aquinas"

The Arabic, Hebrew and Latin Reception of Avicenna's Metaphysics (Scientia Graeco-arabica)

The Arabic, Hebrew and Latin Reception of Avicenna's Metaphysics (Scientia Graeco-arabica)

  • Kara Richardson, "Avicenna and Aquinas on Form and Generation," in The Arabic, Hebrew and Latin Reception of Avicenna's Metaphysics, ed. Dag N. Hasse and Amos Bertolacci (Berlin: de Gruyter, 2012), 251–74.

 アヴィセンナの形相付与者概念についての通説を覆そうとする野心的論文です。伝統的理解はトマス・アクィナスアヴィセンナ解釈に典型的にあらわれています。ことは事物の発生の際に新たに現れる形相はどこからくるのかという問いにかかわります。アクィナスはまず次のような推論を提示します。質料的部分を持たないものが質料から生み出されることはできない。形相は質料的部分を持たない。したがって形相は質料から生み出されない。では形相はどこから来るのか?一つの可能性はそれが質料のなかに元々隠れていたとするものです(アナクサゴラスに帰される)。しかし元から形相があったなら、それは新たなものではなく発生があったとは言えなくなってしまう。もうひとつの可能性は形相が無からつくられたとするものです。アクィナスによればこれがアヴィセンナの見解でした。アヴィセンナはある質料が形相を受け入れる準備を整えると、形相付与者が無から当該形相を生み出して与えると考えたというのです。

 これにアクィナスは反論します。彼の反論は形相は自体的(per se)には存在しないという点にかかっています。質料と形相の関係というのは、蝋とそこに刻印された形状のようなものだ。蝋なしにはその形状もありえないのだから、自然の事物においても形相が質料なしに存在することはない。そのような独立に存在しえないものが無から創造されるということはありえない。あくまでそれは質料との結合した状態で獲得されねばならない。そこでアクィナスが与える解答は、形相は質料のなかに可能態としてあり、それが発生の過程で現実態へと引き出されるというものでした。

 しかし本当にアヴィセンナは形相が形相付与者によって無から創造されると考えていたのか。アヴィセンナもまたアクィナスと同じように形相は自体的には存在できないと考えていました。また彼は第一質料を可能態としてはあらゆる事物だと述べています。これらのことは、彼もまた質料のなかに可能態としてあった形相が現実態に引き出されることで、新たな形相と質料が生み出されると考えていたことを意味していないでしょうか。

 アヴィセンナの因果論によれば、事物にはその存在の原因とその起源の原因の2種類があります。月下の事物の場合、前者の存在の原因は形相付与者になります。対して起源の原因は存在の原因に対して補助的な役割を果たし、たとえば人間の場合父親です。いや正確に言えばその父親にはさらに父親がいて、その父親にもまた父親がいます。よって起源の原因というのは時系列的に無限にさかのぼる連鎖を形成しています。この連鎖の末端に位置する原因(直接の父親)が運動を開始し(精液を動かし)、それを適切な段階でやめることで新たな事物(人間)が生まれます。ここで補助的な起源の原因の役割は終わりです。しかし存在の原因の方はその生まれた事物が存在し続ける限り、それとともにあり続けねばなりません。

 アヴィセンナは存在の原因を完成者と呼び、それは形相を与えるとしています。対して起源の原因(つまり運動の原因)は準備者とされます。それは質料を形相を受け入れるに適切な状態に整備します。あれ?じゃあやっぱりこれは存在の原因たる形相付与者が無から形相を生み出して、起源の原因により準備された質料にその形相を与えるというアクィナス解釈が成り立ってしまうのではないの?

 著者によればそうではありません。ここでアヴィセンナが形相付与者は形相を与えるというとき、彼は個々の発生の事例を考えているのではなく、ある特定の種(species)が存在することの根拠として形相付与者が要請されると主張しているからです。たとえばある炎が物体に燃え移ることで、別の炎を生み出します。この時最初の炎は次の炎の原因です。このように個別の生成の事例では、生み出すものと生み出されるものが同種であるという原則が成り立ちます。しかし炎という種、あるいは犬という種の原因は炎、あるいは犬でしょうか。いやそうではないはずです。炎の本質的原因は炎とは別の種であり、しかも炎より高次のものでなければなりません。それこそが形相付与者であるというわけです。「自然種に属する[その自然種]を構成する形相というのは、その自然物の外部にある」というアヴィセンナの言明は、形相の存在原因が形相付与者にあるということを意味したものと解釈されねばなりません。これは個々の発生の場面で形相付与者が種の形相を創造するということを意味しません。あくまでも個別の局面では、起源の原因が運動を開始することで質料中にある可能態としての形相を現実態へと引き出すことが行われます。

 実はこの存在の原因と起源の原因に関する区別は、まったく同じ形でアクィナスにも引き継がれています。アクィナスによれば、火Aが火Bを生み出すとき、Aはたしかに特定の質料がBという特定の形相を受け入れるときの原因です。しかしここでAが炎という種の原因であるとは言えません。もしそうだとすると炎が炎の原因ということになり、炎が自己原因となってしまいます。しかしいかなるものも自分自身の原因ではない。よって炎はたしかに個別的な発生の原因ではあるものの(炎が炎を生み、人間が人間を生む)、炎が存在することの原因ではありません。後者の原因はより高次の原理であり、アクィナスの場合それは神となります。

 こうしてアヴィセンナとアクィナスの議論の共通性が見えてきます。両者とも個別的な発生の原因は、生まれるものとと同種にある作用者(アヴィセンナの場合はその連鎖)とします。しかしその種があり、それが存続することの原因は高次の原理に求められなければなりません。アヴィセンナにとってそれは形相付与者であり、アクィナスにとってそれは神でした。

 この(少なくとも)アヴェロエス以来のアヴィセンナ解釈をひっくり返す新解釈の最大の弱点は、元素の生成についてのアヴィセンナの議論を解釈する際に現れます。アヴィセンナによれば、水が熱という質を一定限度以上受け入れると、その質料は水よりも火の形相を受け入れるのに適切な状態になります。するとそこで水の形相はなくなり、炎の形相が受け入れられます。この形相はどこから来るのか。それは形相付与者からだ、というのがアヴィセンナの答えです。

 これは水が火に転化する原理を解説したものであり、それゆえすべての個別事例に当てはまるのではないでしょうか。これに対する著者の解答はまさに伝統的解釈を裏付けるもののように思えます。

しかしこれらの文章におけるアヴィセンナの意図というのは、おそらく能動知性[形相付与者]を元素4種(これらが元素転化が起こる[世界]システムの基礎となる)の作用因と同定することであったのだろう。このシステムにおいては、たとえば火は水を熱して、それを空気の形相にたいして完全に準備されたものにする能力を持つ。しかし空気の形相の流出(emanation)は、水を熱した火には帰されない。なぜならその火は水が一定程度熱せられると空気になるという事実の原因ではないから。この見解によれば、元素の転化というのは個別の物的作用者による因果的活動の産物というよりも、むしろシステム(それゆえこのシステムの作用因)の産物であることになる。

 そう、まさに伝統的解釈ではすべての変化は個別的作用者の因果的活動の産物ではなく、システムの作用者(つまり形相付与者)の産物だとされてきたのです。もしそれを元素について認めてしまえば、芋づる式にその他の存在者の生成についても同じ論理が適用されてしまうのではないでしょうか。これは伝統的解釈へ結局回帰することになるのではないでしょうか。

 このように私の見立てではこの論文は完全に説得的とはいいがたいものです。他にも形相が質料の可能態から引き出されるとアヴィセンナがはっきり明言している箇所が一つも挙げられていないという弱点を抱えています。しかしそれでも通説に挑戦することで、存在の原因と起源の原因の哲学史上重要な区別をアヴィセンナから取り出すことに成功しています。今後この論文のテーゼがアヴィセンナ研究者にどう受容されていくか目が離せません。