観察の出現 Pomata, "Observation Rising"

Histories of Scientific Observation

Histories of Scientific Observation

  • 作者: Lorraine Daston,Elizabeth Lunbeck
  • 出版社/メーカー: Univ of Chicago Pr
  • 発売日: 2011/02/01
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  • Gianna Pomata, "Observation Rising: Birth of an Epistemic Genre, 1500–1650," in Histories of Scientific Observation, ed. Lorraine Daston and Elizabeth Lunbeck (Chicago: University of Chicago Press, 2011), 45–80.

 科学史の領域で強い関心を寄せられてきた実験ではなく観察に着目しようという論集から、ルネサンス期に「観察observatio」というジャンルがいかに立ち上がってきたかを記述した章を読みました。1400年代の後半から多様な分野で私たちが現在観察と呼ぶような実践が頻繁に行われるようになりました。しかしその活動が一つの術語で記述されることはなく、またそれが観察(observatio)と言われることはあまりありませんでした。中世ではアリストテレスヒポクラテスに由来するexperientia/experimentumの言葉が使われ、observatioという言葉は時に天の観察を指すために使われるだけでした。ルネサンス期に入ってもobservatioの不在は変わりません。experimenta et observationesという言葉づかいが見られるものの、支配的術語はexperimentaの方でした。

 16世紀にobservatioという単語が使われはじめたのは、懐疑主義哲学者のセクストス・エンペイリコスのラテン語訳(60年代)により、元々古代医学の経験学派で用いられていたteresisというギリシア語のラテン語訳としてobservatioが用いられた時以降です。しかしこの言葉が標準的な哲学タームとなるには時間を要しました。むしろ1530年から70年にかけて天文学と医学の分野を中心で用いられるようになったのは、observationesという複数形でした。この時にobservatioという言葉の意味が大きく変わります。中世ではこの言葉は英語で言うobservance、つまりルールを守るという意味で使われていました。それが16世紀半ば以降経験的な観察を指すようになるのです。この変化に伴いobservatioは一つのジャンルを形成することになります。このジャンルはどのようなもので、どのような役割を期待されていたのでしょうか。

 1400年代の終わりごろからレギオモンタヌスとその弟子たちは自分たちの天文観測をobservatioと呼んでいました。1544年にヨハネス・シェーナーがこれらの観測結果を公刊しました。彼らはこれらの成果のことを確かな技術を持つ者たちによって記録された「観察(observationes)の宝庫」と呼びました。これは一種の集合的経験主義を推進するための道具としてobservationesという単語が用いられた初期の例です。この書物が特異なのは、プリニウス占星術者たちによって集成されてきた匿名の観察結果でなく、特定の熟練の観察者による記録の集成として出された点にあります。これは従来徒弟関係のなかに閉ざされていた情報をその外へとひらいていこうとするものでした。ここにはまた中世以来のobservatioの意味の反映を読み取れます。誰にでも出来るexperimentiaではなくて、技術・ルールに基づいたobservatioという所に強調点が置かれているのです。

 同時期に文献学の分野でもobservationesという言葉は用いられていました。これは単に古代文献に関するノートという意味でも用いられることがおおかったものの、ニゾリウスのように確かな目で古代文献から使用するにふさわしい用例を選び抜くという意味でobservationesという言葉を用いるものがいました。顔相学の分野でも自らを自らをobservationesと名乗る人物が現れました。彼がexperimentorを名のらなかったのは、それが学識のない農夫や老婆たちによって蓄積された経験という意味を持っていたからかも知れません。

 ここから伺えるのは、observatioというのはプロフェッショナルとしての高レベルの学識の存在と強く結びついていたという点です。このため二つの典型的なプロフェッショナル、すなわち法学と医学の分野でこの用語が広く用いられるようになったのは不思議ではありません。医学分野ではobservatioというのは伝統的には守るべき処方を意味していました。これが1560年台に変わります。ファロッピウスの『解剖観察』(これ)は解剖学上の観察を指すために一貫してobservareという単語を用いています。症例集の分野でもobservatioという言葉は用いられました。しかし中世以来症例集としてconsiliaという術語が用いられていました。なぜ新しい単語を?中世のconsiliaでは扱われるのは主として病気であり、罹患した患者の個々の経過には大きな関心ははらわれていませんでした。1500年代の後半から経過報告が前面に現れるようになります。1554年にトマス・ボディエ(Thomas Bodier)がパリで出版した書物は、55名の患者について、その発病時の占星図とその後の回復、ないしは死にいたるまでの過程が記録したものでした。彼やその他の事例からは、観察への関心は天文学占星術)と医学との密接な関連から発展したことが伺えます。それと同時に中世以来のデータを症例報告を主題にした新たなフォーマットに流しこむということも行われました。


(ボディエの作成した占星図ここから)

 症例に焦点を当てた大著が1550年代より出されはじめます。アマトゥスの『治療法集』は症例報告(curatio)の部分を、古代への文献参照や理論的考察に割かれた註釈(cholion)の部分に分けるというフォーマットを採用しました。こうすることで彼は自らの報告を学識あるものであると同時に、観察された具体的な症例をその記述の中心に置いたのです。このような症例を記録することは当時アマトゥスが活動していたフェラーラパドヴァの医師集団のなかで行われていたもののようです。アマトゥスによって確立された観察部分と註釈部分の分離したフォーマットはその後の多くの文献で採用されるようになります。彼の方式が歓迎された理由として、当時の新ヒポクラテス主義の勃興をあげることができます。症例に重点をおくことは、ヒポクラテス文書の『流行病』の1巻と3巻の症例集を模倣しようという運動とよく合致していました。同時に症例の重視には社会的理由もありました。アマトゥスをはじめ症例集を編んだ人物の多くは大学の医学教授ではなく、町や宮廷の医師でした。彼らは理論ではなく実践における成功を自らのプロフェッショナルアイデンティティに置くことで、大学の医学教授たちに対抗して自分たちの医学知の妥当性を主張したのです。

 1500年代の終りにヨハン・シュレンクによって巨大な症例集(Observationes medicae)が編まれます(これ)。彼はアマトゥスと同じく町医者でしたが、アマトゥスとは異なり自らの症例集を自らの診療からだけでなく古代から同時代にいたるまでの文献の読解、および書簡のやりとりによってもたらされた情報をもとにつくりあげました。集合的に観察された結果が集成された情報を流通させるというobservationesの性格がはっきりと現れました。1600年代の前半には少なくとも20の重要な症例集が出版されました。ドイツの町医者たちによって設立されたAcademia Natura Curiosorum(自然に好奇心を持つ者たちのアカデミー)が1670年より出版を開始した雑誌では「観察(observationes)」の様々なリストを掲載するということが行われました。彼らはすでに1世紀にわたって行われてきた観察の集成の伝統に連なったのです。観察を通じてコミュニティが形成されるというのは天文学でも自然誌の領域でも見られ、特に後者の領域は医学と密接に結びついていました。

 observatioという単語はphainomena(現象)、autopsia(実見)という単語と共に新たな術語として哲学の言語として取りこまれていきました。特にautopsiaという単語とは、古代医学の経験派、および懐疑主義哲学の術語として最初用いられ、それが最終的に医学の主要言語となった点で共通しています。しかしobservatioは医学外の領域でも使われるようになった点でautopsiaとは異なっていました。ラムス、アルシュテッドがhistorieの訳語としてobservatioを用いたことがこの領域拡大のひとつの要因でした。historieは任意の分野での観察に基づく知識の記述的説明を指しており、これにobservatioが当てられるようになります。しかしそれでもなおobservatioは当初の経験派・懐疑主義の意味合いを残していました。それは一般的で匿名的な経験ではなく、特定の人物による観察を意味したからです。この起源において理論を距離を置く姿勢があったからこそ、理論構築への疑いが芽生えた16世紀から17世紀にかけて、理論と分離された観察を指すための術語としてobservatioは用いられたわけです。それは学説や理論への言及と切り離されることで、分野上の、哲学上の、宗教上の断絶をこえて学者たちを結びつける「学識ある経験主義 learned empiricism」として機能したのです。