周縁(ロシア)から中心(ドイツ)へ向かう化学教科書

 数十年前まで科学史家は科学の分野で過去に執筆された教科書を無視していました。教科書に書かれているのはいわば化石化した結論だけだ。当時において現在進行中であった科学活動をみてとるには、雑誌論文、専門的モノグラフ、あるいは実験室でのノートやアーカイブに収められた書簡を調査しなければならないというのです。しかしいまではこのような認識はあらためられ、科学教科書を史料としてあつかったり、研究対象自体とするような研究があらわれています。その際には教科書の生成とその消費の2つの局面が主要な関心の対象となりました。扱っている歴史的人物(たち)が書いた教科書から、彼らの世界観や主題へのアプローチがどのようなものであり、それがどう変遷したかを抽出することができます。生み出された教科書が学生たちによってどのように使われたかという消費局面の研究(非常に困難なのですが)もなされています。

 この論考で著者は教科書の持つある性質に着目することであらたなアプローチ法を開拓することを提唱しています。その性質とは教科書がもつ可動性を持つテキストだということです。それは比較的短期間のうちになんども改訂されます。またしばしば別の言語に翻訳されます。これらの点に着目することである期間に国境をまたぐ形でどのような力学が科学の領域で働いていたかをとらえることができます。この論考では1860年代に化学の分野で書かれた3つの教科書が主題となります。それらはすべて(あるいは少なくともそのうち2つは)ロシア語で書かれドイツ語に翻訳されたものでした。

 Friedlich Konrad Beilsteinはドイツで学び同地で教鞭をとったあとに、ペテルブルグのTechnological Institute(工科大学)で化学を教える地位につきました。そこで彼は前任者が授業で用いていた教科書がすでに時代遅れのものになっていることに不満をおぼえ、自ら教科書を執筆します。それが1867年にロシア語とドイツ語で出版された『定性化学分析の手引き』でした。Beilsteinはバイリンガルなので、ロシア語とドイツ語のどちらをまず書いたのかはテキストからは判断できません。ただ彼がこの教科書をロシアで自分が教えている学生向けに書いたことは確かです。それは初学者に対して定性分析をするにはどうすればいいかの指示をあつめた実践的な教科書となっていました。この本はオランダ語、英語、フランス語にも訳され広く用いられました。その時には翻訳はすべてドイツ語からなされています。Beilsteinの事例から分かるのは、彼が(これから見る2人の化学者のように)単なる化学分野での指南を超えた目的を持って『手引き』を翻訳、頒布しようとしたわけではないということです。『手引き』は純粋に教科書でした。

 カザン大学で化学教授をつとめていたAleksandr M. Butlerovは1864年から66年にかけて『有機化学の包括的学習のための入門』を出版します。この書物はドイツ語に翻訳され1868年にその完全版が出版されました。この翻訳によってButlerovが目指したのは、ロシア国内で教育を受けてきた自分をよりひろく西洋で認知させることでした。また化学構造論に基づいた総合的な教科書をドイツ語で出版することで、彼は自らがその理論の提唱者であるという主張を補強しようとしていました。

 新たな理論の先取権をめぐる争いの道具に教科書が用いられるのはDmitrii I. Mendeleevの事例でも認められます。彼の教科書『化学の基礎』はその執筆過程で元素の周期表システムのアイデアに至ったことで知られています。これは当初彼が教えるロシアの学生向けて書かれていました。しかし1889年に出された第5版では周期表理論の化学教育と理論における重要性を説き、自らが予言していた3つの元素が新たに発見されたという情報を与える新たな序が付け加えられます。第5版は最も多くの言語(含むドイツ語)に翻訳された版でした。この翻訳により彼は周期表システムの考案をめぐる争いでの自らの先取性を確かなものにしようとしたのです。

 ButlerovとMedeleevの事例から分かるのは、科学教科書の翻訳はそれを執筆した科学者に対する評価を保証する役割も果たしていたということです。ある科学理論の提唱者としての地位を確立するためには教科書を書かねばならず、しかもそれはロシア語にとどまってはならずドイツ語に翻訳される必要があると彼らは考えました。それゆえ化学分野の主導的現役研究者である彼らは教科書を執筆しました(対照的に現代では先端的研究を行う科学者はあまり教科書を執筆しません。おそらくどこかで教科書の地位が低下したのでしょう)。彼らがそれがドイツ語に訳されるのを望んだことは、科学活動が実践されるときの言語というのはアイデアを運ぶだけでの中立的な乗り物ではけっしてなく、それ自体が様々な論争の帰趨を左右する論争の舞台を形成していたことを示しています。

関連

A Well-ordered Thing: Dmitrii Mendeleev And The Shadow Of The Periodic Table

A Well-ordered Thing: Dmitrii Mendeleev And The Shadow Of The Periodic Table

Communicating Chemistry: Textbooks and Their Audiences, 1789-1939 (European Studies in Science History and the Arts, 3)

Communicating Chemistry: Textbooks and Their Audiences, 1789-1939 (European Studies in Science History and the Arts, 3)