高校での科学教科書

 高校で使われている科学教科書を分析することの意義を説く論考を読みました。これまで科学教科書を分析してきた歴史家の多くは、教科書を科学共同体内での理論や実践のあり方や変化を抽出するための史料として扱ってきました。その際に彼らが主として分析したのは将来の科学者の育成するために書かれ使われた大学用の教科書です。これに対して大学以前の教科書は科学者育成というより、科学の大衆化(popularization)を構成する要素の一つとして理解されました。しかし彼らは科学教科書に現れる変化が科学の発展の結果というよりも、教科書自体の役割が変化したことの結果である可能性を考慮していません。この可能性を考慮するならば、中等教育で用いられる教科書の分析の意義が明らかになります。というのも中等教育では各学校の委員会、国家(アメリカの場合は州)が採用の過程を通じてあるべき教科書の役割を規制するからです。科学がいかに読まれたか(読まれるべきと考えられていたか)についての洞察を中等教育での教科書の分析は可能にします。

 アメリカで高校の科学教科書への政府の介入がはじまったのは、19世紀終わり頃からでした。政府や教育関係者は行政的な介入を通じて教科書の値段を下げることと同時に、大学での科学者育成を念頭に置いた科学教育とは異なる、よき市民を育成するための科学教育の確立を目指しました。しかし冷戦からスプートニクショックへいたる時代には、国家は将来の科学者候補を吸い上げる場として高校の理科教育をとらえるようになり、その内容が抽象化・高等化しました。しかしそれでも大部分の高校生は将来科学者になるわけではないので、結果として教育内容の抽象化は、科学から阻害された多くの非科学者を生むことになりました。このような教育が義務的に強制的に教科書を通じて押し付けられたことは、かえって科学への興味と科学のリテラシーを低下させた可能性すらあります。科学というのはとにかく難解で、できることといえば科学者を信頼するしかない。

 高校で用いられる教科書は客観性と権威を備えたものでなくてはなりませんでした。顔を持った著者に書かれたのではなく、あたかも超越論的な源泉から与えられた真理の書として生徒たちは教科書に出会います。それは州(や地域の)担当者や校長や教師たちという構造的に上位にあるアクターに選ばれたものとして与えられ、それに異を唱えることは高くつきます。教科書の正しい読み方が、教師用の指導マニュアル、カリキュラム上の要求、試験の存在によって定められます。正しい読みをした者には報い、間違った読みをしたものには制裁を下すことで、社会は教科書を通じて人々に特定の読み方というのを教えこんでいくと言えます。

 しかし教科書はしばしば政治的な立場の戦いの場となります。どの教科書を採用するかで利害関係を異にする集団が争うわけです。進化論を教える教科書を用いざるを得なかった場合、創造論を支持するグループは次のようなステッカーを教科書にはりました。

この教科書には進化に関することがらが含まれている。進化は種の起源に関する理論であって、事実ではない。こうしたことがらはすべてオープンな心で取り扱い、注意深く研究し、批判的に考察しなければならない。(戸田山『「科学的思考」のレッスン』、18–19頁から引用)

 中等レベルの科学教科書からは様々なことを学ぶことができます。そこには教育目的の変化や関係者の利害が色濃く反映されているからです。