機械時計としての至福者 『神曲』天国篇第24歌

  • 長谷川悠里「機械時計と神的リズム:『神曲』天国篇第24歌におけるAEQUALITAS」『イタリア学会誌』第61号、2011年、1–22頁。

 文学史と思想史が交差する興味深い論考を読みました。ダンテ『神曲』の天国篇では、諸天球にいる至福者たち(トマス・アクィナス、ペトロ、天使とか)が天体の円運動を模倣して回転運動を行ないます。このときダンテは彼らを機械時計の部品にたとえます。なぜ彼は時間を象徴する時計のたとえを用いたのでしょう。詩と時間の関係についての思索の原点は、アウグスティヌスの『音楽論』にあります。彼によれば神のいる領域は均等性(aequalitas)の原理が常にとどまっているため、いかなる変化もなくそれゆえ時間もありません。この永遠性を模する時間が天の調和した規則した運動によってつくられます。この「宇宙の詩」に地上の事物は自らを結びつけます。ここで詩という言葉が使われていることからも分かるように、均等性(aequalitas)に由来する調和の原理というのは人間が唄う詩も支配しています。

 ダンテもプトレマイオスの宇宙モデルに従いながら、時間も空間もない至高天にいる神を求めて第一の天球(原動天)が回転し、その回転が順次内部にある諸天球に伝わることを、時間の伝達としてとらえています。ダンテはまたリズムを持つ韻文を神に由来する数的調和を言語のうちに取り込むことと考え、宇宙に見られる調和と詩文の調和を同類のものとみなしました。

 ここからダンテが天球の運動のうちに神の均等性(aequalitas)の模倣を認めていると考えるならば、彼が天球の回転をさらに模倣している至福者たちを機械時計の部品にたとえたことが理解できます。「この時代において機械時計以上に正確に、円運動におけるリズムの恒常的均等性を表現できる装置は考えられ」(19頁)ませんでした。天国篇末尾、つまり『神曲』の末尾には「私の願いと意思を、等しく巡る車輪のように動かしていたのは、太陽と他の星々を動かす《愛》であった」(20頁;長谷川訳)とあります。等しく巡るとはigualmente è mossaで、これはラテン語のmovetur aequalitate/aequaliterです。ダンテの願いと意思は「天上で等しく巡る車輪(天球)のように、永遠のaequalitas—神的リズム―に合一して終わるのである」(20頁)。