充足理由律と自由意志 近藤「運命論と決定論」

 古代哲学における運命論・決定論・自由意志の問題に一貫して取り組んでいる研究者が書いた小論を読みました。ラプラスは現実の事象はたとえそれがどんなに小さな規模のものであっても、先行する事象という原因なくしては生み出されないと主張しています。ラプラスが用いた「原因のない運動は存在しない」から出発して、やはりすべては運命(自然)にしたがって生じるとしたのがストア派でした。ストア派が原因なしの運動を不可能とみなしたのは、「仮に原因のない運動が導入されると、宇宙は拡散し分割されて、もはや一なる秩序と管理に即して統御される一なるものではなくなってしまう」からです(アフロディシアスのアレクサンドロス『運命について』192.14–15;近藤論考の14頁に引用)。無秩序を蠍のように嫌うギリシア人。実はラプラスが同じ前提を用いた際にその典拠としたライプニッツもまた、原因のない事象があることは、神によって合理的に設計された最善の世界には相応しくないと考えていました。「充足理由律やそれに基づく決定論的世界観は、ラプラスのように自明のもと断言するわけにはいかず、むしろ優れて形而上学的な主張だとみなすべきであろう」(14頁)。すべてが先行する原因によって生じるなら、すべての原因を知れば未来を確定的に予測することができるようになります。しかしこのような認識は人間には不可能なので偶然と呼ばれる事象が起こります。これを「飼いならす」(イアン・ハッキングという哲学者の表現)ための技法がラプラスにとっては確率であり、ストア派にとっては占いでした。

 しかしストア派の議論は人間の自由意志の存在を否定するのではないのか。ストア派はこれにたいして確かに人間の意欲は表象という原因によって生じるのだけれど、その表象にしたがって本当に行為するかどうかはそれぞれの人間の性向にかかっていると答えました。これは「円筒も円錐も、押されなければ動き始めることはできないが、一度動き始めたならば、その後はそれ自身の自然本性によって、円筒は転がり円錐は回る」(16頁)という事態と類比的にとらえられるとストア派哲学者のクリュシッポスは主張しました。しかし円筒や円錐の形によって転がり方が決まっているのなら、結局意志と行為は必然的なものにならないか。このようにライプニッツは批判します。けれども実はストア派にとって人間の性向(円筒の形)とは「善の観念を核とした信念の集合のあり方」(16頁)であり、その集合のあり方の形成の責任は個々人が負います。よって円筒や円錐が転がるという意味と厳密に同じように、人間の意志と行為が決定論的であるとは言えないということになります。

関連文献

  • 近藤智彦「運命はストア派的か?」『思想』971号、2005年、142–144頁。