化学反応するヒュームの心 Demeter, "Anatomy and Physiology of Mind"

Blood, Sweat and Tears -: The Changing Concepts of Physiology from Antiquity into Early Modern Europe (Intersections Interdisciplinary Studies in Early Modern Culture)

Blood, Sweat and Tears -: The Changing Concepts of Physiology from Antiquity into Early Modern Europe (Intersections Interdisciplinary Studies in Early Modern Culture)

  • Tamás Demeter, "The Anatomy and Physiology of Mind: David Hume's Vitalistic Account," in Blood, Sweat and Tears: The Changing Concepts of Physiology from Antiquity into Early Modern Europe, ed. Manfred Horstmanshoff, Helen King and Claus Zittel (Leiden: Brill, 2012), 217–40.

 デイヴィッド・ヒュームの心の理論に関する通説を覆そうとする野心的論考を読みました。ヒュームの想定する心というのは、さまざまな知覚(perceptions)が類似や因果や共感作用によって一体化したものであり、能動的な能力(faculties)を備えたものではないという見解が一般的です。この時心は感覚印象を受け入れる受動的な受容者であり、受容された印象はもっぱら機械的な作用によって処理されるとみなされます。同質の物質に斉一的な作用がもたらされるニュートンの『プリンキピア』の枠組みでヒュームは心を理解したというのです。

 しかしこの解釈は本当に適切なのでしょうか。印象からつくられた観念を、因果的、時間・空間的、あるいは類似性に基づいて連合させるとき、その連合のあり方を規定するのは、諸観念の内容という質的なカテゴリーです。するとメカニカルな作用としてこの連合をとらえることはできなくなります。またヒュームによれば印象と感覚は質的に異なっているので、前者から後者がつくられ、後者から前者がつくられる以上、この生成を担う原理は質的な能力でなくてはなりません。

 この質的な差異に応じて作用する諸原理を説明するときに、ヒュームが参照したのが同時代のスコットランドで栄えていた化学と生理学の研究でした。そこでは、化学物質や有機体は単なる物質の量的な集合としては分析できず、その構成要素の質的な差異に着目せねばならないという立場が強く支持されていました。このバックグラウンドに照らしてみれば、ヒュームが諸観念の連合を化学反応にたとえて説明していることが理解できます。観念はそれぞれの内容という質的な差異に基づいて、相互に反応しあうかどうかが決まり、これが連合の規則となるのです。有機体においてこの反応規則を明らかにするのは生理学の役割です。ヒュームにおいてもまずは化学反応のようにとらえられる心の作用規則(感覚、記憶、想像力、理性、判断、反省、共感という諸能力)を抽出する心の生理学があって、それを踏まえることではじめて彼が志した「人間本性の解剖学」が可能になると考えられます。