アリストテレスへ帰ろう ハイデガー『存在と時間(一)』熊野訳、梗概

 岩波文庫で新しく出されている『存在と時間』新訳の第1巻から、冒頭にふされた梗概を読む。この巻の時点では著者はアリストテレスに一直線にもどっていっているように思えた。人間が存在しているということを考えると、まず人間は世界のうちに存在しているということがわかる。では世界とはなにか?そのうちで存在するとはどういうことか?ここで世界についてであれ、人間による世界の認識についてであれ、学問的で反省的な水準に問いの照準をあわせてはいけない。むしろそういうすべての学問的な活動にさきだって、私たちが日常的に暮らしているときどのような世界にどう関わっているかが問題とされなければならない。ではその世界とは何かというとそれは端的にアリストテレス流の目的論的な世界である(ように読める)。道具が典型的だ。それはなにかをなしとげるために加工されている。私たちが日常的に暮らしているときには、各々のものが目的にそってつながって編み上げている世界を、そのようなものとして了解している。その了解というのも反省的で学問的な認識を経由しているのではない。私たちはむしろそのような認識に先立ってあるような「気づかい」によって世界と交渉している。目的性を軸に連関をなした世界全体に、意識する以前に習慣的に目配りしながら日々の生活を送っているということだろう。これが人間が世界のうちに存在しているときのあり方となる。

 アリストテレスにとって世界の目的論的なあり方は、世界の側で規定されている。これにたいして著者は近代哲学者らしく、そのあり方は人間による世界へのかかわりのなかであらわれてくると指摘する。しかしここでもういちどアリストテレス流のひねりがはいる。そのかかわりは人間による反省的な認識のなかであらわれるのではなく、むしろ学的認知を経由しないような、アリストテレスが自然とか技術とかいう言葉で名指した、思惟抜きに作動するような原理から構成されるというのだ。

 このような捉え方が何と対比されるかというと、予想されるとおりデカルトである。デカルトは日常的な世界経験を拒否した。そこにとどまっていては数学で記述できる確実な世界認識はえられない。だから物理的世界は延長から(そして延長だけから)なるとし、その決め打ちから数理科学によって世界を理解することを正当化しようとした。これによりしかし上述の日常経験のうちにある世界とそこへの人間のかかわりは見逃されてしまうという。そういう世界をデカルトは飛びこえてしまったという。とはいえデカルト(やガリレオ)は意識的にそうしようとしているのだから当然ではある。