自由な思考を励ます〈社会〉 木村「明治期における「社会」概念編成の歴史的考察(前篇)」

  • 木村直恵「明六社ソサイチー」・社交・アソシエーション実践 明治期における「社会」概念編成の歴史的考察(前篇)」『学習院女子大学紀要』第15号、2013年、1–33ページ。

 人々があつまる。あつまった人々は平等である。これら平等な成員が議論をたたかわせる。この過程をへて決定がくだされる。以上のような営みが継続的に行わるためには、それを支える制度が整備されるだけでは不十分である。それにくわえて、そのような営みの継続を可能とするような心のありようが各個人のうちに涵養されていなければならない。このきわめて伝統的な立場に立ちかえることから、上述のような営みを成立させようとした明治期の人々の活動を理解しようとする論考である。全体の構成にしても、個々の段落の組み方にしてもけっして模範的とはいえない(この点では同著者による以前とりあげた論文がより参照に値する)。史料が主張をどの程度の確度で裏打ちしているかについてさらなる検証を要する。それでもこの論考は「自由に思考することを励ます力」(14ページ)に価値を見いだすすべての人に読まれてほしいと感じさせる。
 明六社とよばれる結社を組織した人々は、最初に述べたような営みが日本では実践されていないと感じていた。彼らの判断では、日本にはおよそ議論を成立させるための前提条件が欠落している。そもそも長きにわたって複数の人間があつまることが「徒党」を組むこととして禁じられていた(もう少し正確にいうと、政治的な意図をもって人的結合を組織することは禁じられていた)。ここに集まって議論を行う場所を設置してみたところどうなったか。各人は各人(の背後にある組織)の利害関係を掲げ対立を深め、ついに対立が敵対に変化し、暴力の応酬へ(つまり暗殺へ)といたった。このような状況で平等の成員による議論の積み重ねなど起きようもなく、社会は親と子の関係に象徴されるような非対称的な権力関係を軸に動くことになる。この非対称的な権力が上位から暴走した場合どうすればよいか。ある時点までの福沢諭吉の診断では、そのとき個人はあくまで正しい道理を貫き、殉教者のように命を捧げることにより、為政者の悔い改めを期待するほかないという。この論理は高潔であるようにみえて、実は政治のうちに死という極限状態を含めるような想像力をもつという点で暗殺の論理と同じ水準にある。
 このような「粗暴殺伐の悪習」(森有礼)はしかし単に日本に固有のものではない。敵対の心情は人間の心理にそもそも埋めこまれているものであり、この意味で日本がたどった道は必然ですらある。同時にこのような悪習を「道義自守の良俗」(森)へと転換させる鍵も人間の心理にある。人間心理には一定の共通性が存在し、それへの理解を土台に見解の相違を違いとして保持したまま、対立を敵対へともたらさないようにすることができる(福沢、西周ホッブズ)。
 では議論のための前提条件となる心のありようをいかに確保するか。明六社の人々が選んだのは、彼らが洋行したときに経験した結社(アソシエーション)を日本でもつくりだすことであった。議論にもとづく政治が機能するためには、市民のモラルが一定の状態になければならず、このモラルなり感情生活なりを向上させるために社交活動が寄与する。このような西洋での考えにならい、森有礼らは日本でも平等な成員が異見をもちながら社交する結社を構想した。そこでは自発的であるとか平等であるということが、実践を通じて学ばれる。本記事冒頭で述べたような営みを可能にするための感覚(センス)は、この実践を通じて涵養された。したがって明六社創始者たちは、この種の実践を可能とするような規則、成員間の関係を規正する規則の制定に大いに意を注いだ。この経験をへて福沢諭吉もまた上述の悲壮な政治構想から、非対称的な関係から離れ、対等な人間同士が結ぶ「人間交際」の理念にもとづく政治イメージへと舵を切ることになる。死へとけっして収斂しない政治実践がリアリティをもつにいたったのである。
 明六社の結社はなんと呼ばれたか。「ソサイチー」である。福沢の人間交際は何の訳語であったか。「ソサイチー」である。のちにこの概念は「社会」と訳されることになる。すなわち「近代の日本が「社会」概念と取り結んだ最初の関係は、〈政治〉的なものとしてsocietyを理解し構想する試みであった」(4ページ)。