貧乏都市生活からくる鬱病 ペトラルカ『わが秘密』

わが秘密 (岩波文庫)

わが秘密 (岩波文庫)

  • ペトラルカ『わが秘密』近藤恒一訳、岩波文庫、1996年、15–22, 126–155ページ。

 榎本恵美子『天才カルダーノの肖像』の大半がカルダーノによる自叙伝の分析にあてられていたことを受けて、彼に先行して自己についての分析をほどこしたペトラルカによる『わが秘密』の一部を読む。この書物は「いったい自分は、どのようにこの人生にはいりこんできたのか、どのように出ていくのであろうか」(15ページ)と物思いにふけるペトラルカのまえに、「真理そのもの」とアウグスティヌスがあらわれることで幕をあける。作品の本体は、この3人による3日間の対話の記録となる。とはいえ実際の対話では真理はほとんど話さず、ペトラルカとアウグスティヌスのやりとりが大半を占める。

 第2巻に「鬱病」と題された章がある。鬱病といっても、ラテン語のacedia(怠惰、不機嫌)にあたる言葉であり、現代と鬱病とは正確には重ならないかもしれない。しかし(魂の)憂鬱(tristitia)とも表現されていることや、全体の論旨を考慮すると、鬱病という訳語を訳者があてたのは適切であったと思えてくる。とにかく気分がふさいでとてもつらい状態を指しているようだ。

 ペトラルカによると鬱病は「ある致命的な魂の悪疫(ペスト)」であり、「憂鬱においてはすべてがにがく、みじめで、おそろしく、そして道はつねに絶望へ、不幸な魂を破滅に追いやるものへと開かれている」。この病に自分がかかったのは、運命が絶えまなく苦難を自分にもたらすからだという。

 このような申告をうけてアウグスティヌスによる診断がはじまる。これによりペトラルカが思い悩んでいるのは、貧乏であることと、自分が自分のための人生を生きておらず他人のために生きていることであるとわかる。まず貧乏であることについては、ペトラルカはもちろん自分より貧しいものが多くいることを知っている。しかしそのことは慰めとならないという。というのも彼が望んでいるのはホラティウスの歌にある次のようなことだからだ。

友よ、わたしの願いはなんだとおもう?いまより少ない資産でもいいから持ちつづけること。そしてなお生き永らえることが許されたなら、余生を気ままにすごすこと。

これにたいしてアウグスティヌスは、運命の女神の支配下にある死すべき人間が悩みのない生涯を望むことなどできないとさとす。次に自分のために生きていないということについては、世の中の大半の人間が、かのユリウス・カエサルですら、他人のために生きた側面があったとして、ペトラルカを説得する。

 ペトラルカの憂鬱の種はもうひとつある。都市だ。彼は自分が住むアヴィニョンを「地上でもっとも鬱陶しくて騒々しいこの都市。まさに世界中の汚物にあふれた、息のつまりそうな底なしの掃きだめ」(144ページ)と形容する。「汚臭にみちた街路。吠え猛る犬の群れに混じった汚らしい豚ども。壁をゆする車輪のきしり。交錯しながら走りかう馬車。そして種々雑多な人間たち。…おびただしいわめき声による、ひどい騒音。殺到して押しあう群衆」。これらのことが「良き学芸の研究をさまたげます」。またもやホラティウスがいうように、「詩人はおしなべて森を愛し、都市を避ける」。

 アウグスティヌスは心の内なる騒ぎを鎮めれば、都市の喧騒にかき乱されることはなくなるだろうとアドバイスする。そのためにセネカキケロの書物を読み、その過程でのちのち思いかえして有用でありそうな文章に出会ったら、そこに書きこみをすることでそれらを心に刻みつけ、憂鬱な気分に抵抗するための武器とせよという。

 最後にアウグスティヌスは、そもそもその気になれば貧乏からも都市からも自らの意志で脱出できるのだから、それらのことで過度に思い悩むのはやめよと諭す。これにペトラルカはいちおう納得する。「大多数の人たちとくらべて、わたしの境遇は、いつもほどみじめには思われなくなりました」。しかし心の底からは納得しない。「大いに異存があります。なによりもまず、都市をすてるのはたやすいことで、私の自由意志によるというお考えです」(153ページ)。

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