誰がための地震か Martin, "The Ends of Weather"

 ルネサンス期の『気象学』をめぐる議論のうちでの目的因の位置づけを探る論文である。アリストテレスは『気象学』のなかでほとんど目的因に言及していない。このことは気象現象が質料上の必然性に起こる事象であり、目的を有さないと彼が考えていた可能性をしめしている。だが一方で、季節ごとに雨がふったりふらなかったりすることは穀物の生産に一役かっていないだろうか。またキリスト教の世界観からすると、気象現象から目的性を奪ってしまうことは、神による秩序の統御が全世界にいきわたっていないことを意味してしまわないか。

 中世以来おおくのアリストテレス主義者たちは、気象現象を論じるときにはほとんど目的性を論じていなかった。しかし一見目的性を有さず、アリストテレスも論じていないものの、目的性を否定すると難問が生じるという上記のジレンマを正面から引き受けたものもいた。ピエトロ・ポンポナッツぃによれば、人間はたしかにあらゆる気象現象についてその目的を見いだすことはできない。自然学上の説明としてはそれは質料の必然性によってか偶然によって起こると考えるべきである。可能な限度を超えて目的性を求めることは愚かな所業である。しかし同時に神の視点から見るならば全ては目的性をもって配置されていると考えなければならない。このようなポンポナッツィの立場とは異なり、大きな地震の被害を前に、この現象には目的などないのではないかと考えた者たちもいた(Agostino Galesi, Lodovico Boccadiferro; 1570年代にはフェラーラを中心に地震が起きていた)。

 一方ルター主義者のあいだでは地震や彗星といった気象現象を神の摂理や怒りをあらわすサインととらえる者たちが多かった。メランヒトンは世界は神の摂理にしたがって運行されており、気象現象は神からの知らせであると論じた。この考えの典拠の一部はGiovanni Gioviano Pontanoの『気象論』にあると考えられる。この他にもおおくのプロテスタントの学者が気象現象に神のサインという目的性をみいだした。Marcus Frytscheによれば地震は人間の罪を罰そうとする神の意志をあらわす。Nicolaus Taurellusはイタリアの哲学者には俗人が多く、そのため自然学と神学を切り離す傾向が強い。気象学における目的性の否定もその一環だという批判をおこなっている。だが一般的に17世紀にはいると気象現象に目的性を読みこむことはプロテスタント圏ですら少なくなる。たとえばダニエル・ゼンネルトは気象現象を論じるにあたり目的因にほとんど言及していない。ヨハネス・ケプラーも気象学における神の摂理の役割を縮小しようとしていた。ケプラーにとっても(メランヒトンにとってと同じく)世界は神の摂理のもとにあったが、そこで実現されている秩序は不規則性を含みこんだものであった。