アベラール・クエスチョン Abelard, Theologia “scholarium"

  • Abelard, Theologia “scholarium,” ed. E. M. Buytaert and C. J. Mews (Turnhout: Brepols, 1987), 511–23.

 アベラールは著作Theologia "scholarium"のなかで、次の問いを提出した。

神が為しているよりも多くの、ないしはより善きことをなせるかどうか、また為していることをなんらかの仕方でやめて、いかなるときにもそれらを為していないようにできるかどうかが問われるべきだ。私たちがこのことを認めるにせよ、否定するにせよ、不都合からくる多くの懸念におそらくはいきあたるだろう。

 アベラールはここで為していることと違うことを為す可能性が神にひらかれているかを問うている。その一つの可能性がいま為していることよりも多くのこと、ないしはいま為していることよりも善いことをなすことである。もう一つの可能性がいま為していることをやめることだ。

 まず彼は神がなにかを別様になしうると認めると、「神の至高の善性を大いに減じさせることになるだろう」とする。もしいま為していることを神がやめるならば、それをやめるのは善い行いのはずだ。だがそれならなぜそもそもそれを為しているのだろうか。為すべきことをなし、為すべきでないことを最初からなさないのが神の善性にはふさわしい。よって神は為していることをやめることはできない。またなすのが善いことをやめたり、なすべきことの一部から手を引くとなると、まるで神が出し惜しみをしているかのようではないか。プラトンが『ティマイオス』で論じているように、最善の創造者は嫉妬とは無縁である。だからそれは可能な限り自らに似せて、悪の最も少ない世界を創造したはずである。万物は神によって、可能な限り善い状態で創造されている。

 ここからアベラールは議論を神の意志と能力の関係に議論をうつしていく。彼によれば、「個々のことがらを為すにあたって、神の能力と意志とは互いが互いにつきしたがう。望まないことは神にはできず、また起こそうと望まないときに、それを為すこともできない」。神ができることと望むことの範囲は完全に一致するというのだ。よって神の意志から無条件に行為が導出されることをアベラールは嫌う。ヒエロニムスいわく「神は望むからといってそれを為すのではない。善いからそれを望むのだ」。善きことしか神は望まず、それゆえ善きことを望む神の意志だけが実現される。ここからアベラールは神が自らの意志を善きことのために犠牲にしているかのような議論すら展開してみせる。「キリストも御自身の満足はお求めになりませんでした」とあるではないか(「ローマの信徒への手紙」15:3)。

 こうしてアベラールの議論は神の善性をすべてに優先させた。よって神は為していることしか為せない。だがこの結論をだすと「理性にも権威にも相反する多くのことがらにいきあたるだろう」と彼は認める。たとえば罰せられるにふさわしい人間ですら、神によって救済されうるはずだ。とすれば神には救済しない人間をも救済できる能力がなければならないのではないか。だがこの反論は救済を受けうる者と、救済を為す者とを混同しているとアベラールは反論する。罰せられるにふさわしい人間ですら救われうるというとき、私たちが語っているのは人間の本性が持つ可能性についてである。この点では確かにその本性と救われうるという可能性とのあいだには矛盾はない。しかし神がその人間を救いうるというときには、私たちは神の本性について語っている。このとき神の本性と罪人を救うという可能性が相反しないというならば、それは端的に偽である。これは耳が聞こえない人間しかいない世界で立てられる音は、たしかに音の本性としては聞かれうるものの、そのまわりにいる人間の本本性にそれを聞く可能性がないのと同様である。

 もう一つアベラールのように考えることは神の卓越性(diaina excellentia)を損なうという反論が考えられる。神よりはるかに劣る私たち人間ですら、為していないことを為せ、また為していることをやめることができる。これにたいしてはまず神が為せないことを私たちが為せるからといって、それは私たちを神より高みにおいて、神を貶めることにはならない。たとえば神は食べたり歩いたり罪を犯したりすることはできない。このような行為ができないことこそが神の尊厳を保っている。また私たちが為すべきでないことを為すことが可能であるのは、人間の尊厳よりもむしろその弱さに帰せられるべきだ。むしろ為すべきことしか為すことができなくなったとき、人間はより善いものとなろう。最後に神が為していることしか為せないというのは、その全能性を損なうことはない。望んだことをなんでも為せるということは、望まないことは可能でないということだからだ。こうして意志と能力の一致を再度持ちだすことで、アベラールは神が為していることしか為せないという自らの立場が、その全能性を損なうものではないと論じたのであった。

 こうしてアベラールは主としてプラトンティマイオス』に依拠しながら、神がなすことはすべて最善で理にかなった原因からなされるのであり、それ以外の行為を神は望むこともなく、それゆえそれ以外の行為を為す能力は神にはないと結論づけた。この結論は神を必然性でしばるものとして激しい反発を招くことになる。