オッカムにおける神の全能性と論証可能性 Maurer, "Ockham on the Possibility of a Better World"

 神の自由と全能性をめぐるオッカムの議論から、その思想の核心をかいま見せてくれる論考である。この問題を論じるにあたり、オッカムは他の中世の神学者たちと同じ脅威に対峙していた。それは彼らが理解するところのギリシア、アラビアの哲学者たちの学説である。それによれば、原因としての神と結果としての世界の関係は必然的なものである。神からは必然的に第一の知性が流出し、そこから存在の連鎖にしたがって下位のものが順に流出していく。この異教的観念は神の全能性と自由を損なうものと考えられ、多くの神学者からの反駁を招いた。これらの反論を前にしたオッカムはしかし、そのどの反論も証明にはなっていないとする。アクィナスの反論もスコトゥスの反論も異教徒を説得できないだろう。神が自由な意志でもって、別様でもありえた世界のうちから、まさにこの世界を選択して、すべてを直接的に創造したという考えが確かなものとなるのは、信仰によってのみである。続いて神がいまある世界とは別の、より善い世界をつくりうるかという疑問にたいして、オッカムはイエスと答える。それだけでなく神は今ある世界に別の世界を加えることもできるという。世界の複数性はアリストテレスが否定した学説だ。しかしオッカムによればアリストテレスの反論はたしかな証明となっていない。

 著者は結論としてオッカムが議論の根幹にすえた前提は神の自由と全能性であったと主張する。しかし上記の分析はこれとは異なる解釈を導いているように思われる。オッカムがなによりも気を配ったのは、ある主張が論証可能かどうかであった。この可能性の検証にあたって彼は決して妥協しなかった。彼は神の自由と全能性ですら論証不能だと認めてみせる。アクィナスとスコトゥスは信仰からくる仮定を理性にもとづく議論に忍びこませている。理性的議論の水準では異教徒の必然性からなる世界観を否定できない。だがひとたび神の自由と全能性を仮定すれば、こんどはオッカムの検証はアリストテレス本人のうちに論証の不全を見いだしてみせる。世界の複数性を否定する論拠はないのだ。

 ここから私たちは多様にあらわれるオッカムの思想の本体をみる。一方でオッカムは神の性質に関する議論の未決性を主張し伝統的神学を破壊していた。他方で彼は神の全能性に強くこだわることで世界を神の恣意性(自由)に委ね、それにより後期中世の神学を方向付けている。この一見して相容れないオッカム像が立ち現れるのは、彼がある議論のうちで仮定された前提から何が証明できなにが証明できないかの明晰化にあくまでこだわった帰結であるように思われる。