ロンバルトゥスの応答 Lombard, Sententiae, 1.44

  • Peter Lombard, Sententiae in IV libris distinctae, ed. I. C. Brady, 3rd edn, vol. 1, part 2 (Grottaferrata: Editiones Collegii S. Bonaventurae, 1971), 303–306 (bk. 1, distinction 44).

 アベラールの問いは、中世神学の標準的教科書となるロンバルドゥス『命題集』にとりこまれることになる。「神は為しているよりもなにか善いことを為すことができるか」。ロンバルドゥスはまず、できないと答える人々がいるという。というのも「もし[よりよいなにかを]為すことができるのに、為さないとすれば、神は嫉妬深いものとなり、最高の善ではなくなるだろうから」。これはアベラールの回答を立場である。ロンバルドゥスが考えるに、もし何かが今よりも善くなりえないとすれば、その理由は二つ考えられる。一つはそれが最高の善であるから、そのものに善性において欠けるところがなにもないからである。だがもしそうだとすると、創造主である神と被造物とが同等になってしまう。この帰結を認めることはできない。考えうる第二の理由は、そのものに欠けているような善を受け入れる能力がそれにはないというものである。だが創造主である神はそのような能力を付与することができる。よってこの理由からも神がつくっているものよりもより善いものをつくれないと考えることはできない。神は為しているよりも善いことを為しうるのだ。

 次にロンバルドゥスがは、神が為していることをいまとは別の、より善いやり方で為しうるかを問う。この問いへのロンバルドゥスの答えは私にはそれほど明瞭ではない。彼がいうに、もしやり方というのが創造主の知恵を指しているなら、創造主の知恵よりも優れた知恵は存在しないのだから、創造主は自身の知恵よりもより高度な知恵をもってなにかを為すことはできない。この意味で神はより善いやり方ではなしえない。だがもしやり方というのが事物のあり方を指しているならば、神はより善い存在のあり方を事物に付与することができる。この意味で神はより善い仕方で為すことができる。

 最後にロンバルドゥスが問うのは、神はつねに自らがかつて為したことを為すことができるかというものである。これを否定する者が言うに、神はかつては受肉して復活することができたが、いまはできない。よって神はかつてできたことであれば何でも今なせるというわけではない。

 これにたいしてロンバルドゥスは時制の違いを持ちだして反論する。たしかに神はいま現在受肉したり復活することはできない。しかしこれは神がかつて持っていた能力がいま失われていることを意味しない。神はかつて受肉し、復活することができた。同じように神はいま「かつて受肉し復活することができた」ことができる。この意味でかつての神と今の神は同じ能力を持つ。これはちょうど「彼は今日読むことができる」という言明が、あしたには「彼は『読んだ』ことができる」となるのと同じである。「ある時点で彼が読むことができる」という同じ能力が、一貫して保持されていることがわかる。この意味で神の能力は変化にさらされていない。「よって神はかつて可能であったことはなんでもいま可能である。すなわちかつて持っていた能力はすべて持っている。かつて為すことができたことがらであればなんであれ、それを為す能力をいまも持っている。ただしある時点で為すことができたことのすべてをつねになすことができるわけではない。あるときに為せたことを為すことが可能であったり、『為せた』ことが可能であるのである」。

 こうして神を必然性で縛るアベラールに対して、ロンバルドゥスがは神の全能性を擁護してみせた。彼の立論がつねに受けいれられたわけではないものの、少なくとも『命題集』にアベラールの問いを含めたことにより、ロンバルドゥスはそれを中世神学者にとって避けて通ることのできない問題としたのであった。