- Hugh of Saint Victor, De sacramentis christianae fidei, PL 176, 214–16 (bk. 1, part 2, ch. 22).
サン・ヴィクトルのフーゴーは『キリスト信仰の神秘について』のなかで、アベラールの学説に反論を加えている。彼によれば、神の為す業について理性的に論じると称して、無限であるはずの神の力に制限をくわえてしまっている者たちがいる。その者たちは真実であることよりも、目新しいことを論じるのに夢中になっている。彼らによれば、神は為していること以外のことはできないし、為すことよりもより善いことを為せない。なぜなら為していることは神にあらかじめ予見されていることであり、これ以外のことを為せるとすると、神が予見していなかったことを為せることになる。これはつまり神の摂理が変化しないかぎり、神には為していること以外のことを為す可能性はひらかれないということだ。ここで摂理は不変なのだから、神には為すこと以外を為すことはできない。またより善いことを為せるとすると、神は為していることについてより善くなせたのにそれをしなかったことになる。これは神の純粋な心(pura mens)に相応しくない。よって神は為していることをより善く為すことはできない。この後者の議論はアベラールが『ティマイオス』に基づいて展開したものであった。以上からわかるように、フーゴーは理性にもとづいて新奇なことがらを論じる者としてアベラールを批判している。その典型例の一つが、神の善性と全能性のジレンマをめぐって出した答えなのであった。
フーゴーの意見では、神は為していること以外を為せるし、また為していることよりより善いことを為せる。そこでアベラールの見解への反論が行われる。反論を行うのは、理性によって正しいとされた見解を理由もなく否定していると思われたり、間違ったことを浅薄な思慮から真実と受け入れていると思われることがないためである。反論は二つに大別される。一つは為していること以外のことが起こりうるからといって、神の摂理自体が変化するわけではないというものだ。もう一つの反論は神は為していることよりもより善く為せるという主張を正当化するために行われる。神がより善く為せないとすると、それは彼が為した結果である被造物がそれ以上善くなりえないからだろうか。だがこれは被造物と創造主を同等に置くあやまった議論である。あるいは被造物にはそれ以上善くなる能力が欠けているからだろうか。だがこの能力の欠如は、創造主たる神であれば補うことができる。よって神は為していることよりも善いことを為せる。この後半の議論はロンバルドゥスにそのまま引き継がれることになる。
こうして神は自らを損なうこと以外のすべてを為せることになる。神は全能なのだった。フーゴーは理性にもとづく新奇な議論から、神の全能性を守ろうとしたのであった。
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