読書ノートによる認識の編成 Daston, "Note Taking(s)"

 読むこと、そしてノートをとることが、科学研究にかかわる実践の方式を構成していることを論じた小論である。何かを読み、それについてノートをとるというのは現在の科学研究でも広く行なわれている。だが読書は常にこのように行なわれてきたのではない。現在にまで続くこの種のノート取りをともなう読書は、ルネサンス期の人文主義者の実践に負うところが大きい。この人文主義者の実践はさらに、自然を読む行為に拡張された。書を読みノートをとるように、自然を観察し、その結果をノートに書きとめることが行なわれるようになった。こうして自然もまた読まれるわけだ。言い方をかえれば、文字通り読めるようにされてはじめて自然は理解可能となる。さらにノートを取りながら読むという特殊な形態の読書の出現は、ある種の読み方を人々に内面化させる効果をもった。そうすることにより題材に対して特殊な注意の振り分け方が行われるようになる。自然もまた特殊な注意の向け方によって読まれる。そうして読みとられたことは、特別な形式で記録され、それゆえ共有可能となる。こうして(文字通りであれ比喩的であれ)読み方が読む共同体を構成する。そういう読み方を経て書かれたものは、同じような読み方から生みだされた共同体内の別の書き物への参照を含みこむ。こうして読むことも、書くことも、そうして書かれたものをさらに読むことも、集合的な営みとなる。読書という行為を、読書する人間が書斎のなかで孤独のうちに書物そのものと対話するようなものとしてとらえるのは不十分である。むしろ読書という行為の有り様が形式化され共有化されることで、人々が共同で参画する認識の実践が構成される様子を描き出さねばならない。