ルターの律法とメランヒトンの自然哲学 Kusukawa, The Transformation of Natural Philosophy, ch. 4

The Transformation of Natural Phil (Ideas in Context)

The Transformation of Natural Phil (Ideas in Context)

  • Sachiko Kusukawa, The Transformation of Natural Philosophy: The Case of Philip Melanchthon (Cambridge: Cambridge University Pres, 1995), 124-173.

 Kusukawaによる基本書から第4章を読む。あらためて読むと自然哲学と神学の関係につき、深い考察がめぐらされていることに気がつく。

 1529年のマールブルクでルターとツヴィングリは決裂した。この決裂はルターの右腕であるメランヒトンの学問構想を変化させる。これまでメランヒトンカトリックからの攻撃にたいしてルター派を守るべく、ルターの神学の体系化につとめていた。それがいまやルター派をツヴィングリ派からはっきりと切り離さなければならなくなったのである。

 ツヴィングリとルター・メランヒトンの対立点の一つは摂理解釈にあった。ツヴィングリによれば、神の摂理は不可視である。摂理の結果として神による選びがあるのだから、選びもまた人間には不可視である。選びのしるしとして信仰があるのみである。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(「ヘブライ人への手紙」11:1)。摂理を徹底的に不可視化するツヴィングリの見解は、聖餐式のパンとぶどう酒をあくまで象徴とみなす彼の解釈を支えている。

 これにたいしてルターとメランヒトンは、聖餐の解釈も摂理の解釈もツヴィングリとは異なる仕方で行った。メランヒトンにとって摂理とは被造物のうちに認められるものであった。被造物がみせる秩序は神による支配の結果であり、この支配が摂理である。このように被造物を通じて摂理を知ることができると確信していたメランヒトンは、ルターとツヴィングリの決裂以後、摂理にいたる重要な学問分野としてまずは天文学占星術の意義を強調するようになり、のちに自然哲学全体の意義を説くようになる。

 メランヒトンがこうして推進するにいたった自然哲学は、ツヴィングリへの対抗措置であると同時にきわめて「ルター派的」であった。というのもそれは福音と律法の厳格な区別のうえになりたっていたからである。福音は罪の赦しを教え、律法は神が定めた支配者への服従を要請する。この区別のうえでメランヒトンが強調したのは、自然哲学とは律法に関する知であるということであった。自然哲学とは究極には倫理を説くものであり、その倫理とは権威への服従である。どういうことか。自然哲学により被造物のうちに摂理を見てとることが、この地上の政治的秩序のうちにも摂理を見てとることにつながり、これが服従を要請するのである。同時に自然哲学はすべてが神の作品でありその計画に従っていることを教える。人間は神の前では無力である。よって人間が己の業にしたがって救いに与れるわけがない。こうして律法としての自然哲学から、信仰義認の福音へといたるのである。

 クスカワの研究以降、ルター派の教育への自然哲学の取りこみにメランヒトンが決定的な役割を果たしたことは広く認知されている。またそのときにメランヒトンが自然哲学の意義として、被造物の考察を通じて神の認識にいたることができるという点を強調したということもよく触れられる。だが同時に忘れてはならないのは、このようなメランヒトンの議論を駆動していたのは、当時の具体的な政治的・宗教的状況であり、その成り立ちを真に理解しようと思えば、摂理、聖餐、律法をめぐる改革者たち内部での深刻な対立を視野にいれねばならないということである。