形相性(formalitas)による霊魂と知性の区別 Scaliger, Exotericae Exercitationes, ex. 307, sec. 15

  • Julius Caesar Scaliger, Exotericae Exercitationes (Paris, 1557), 399v-400r (ex. 307, sec. 15).

 では知性とはなんなのか。知性とは霊魂が行使する能力の一種である。だからといって霊魂と知性とが現実的に(realiter)に区別されていると考えてはならない。霊魂の本質はそれ自体であらゆる活動をつかさどるからだ。よって霊魂から知性や欲求(voluntas)が区別されるのは、あくまで理屈上(ratione)のことである。知性や欲求は霊魂の様態(affectus)なのだ。これは存在者の様態として、一つであること、善であること、真であることがあるのと同じである。このときまず存在者という本質があって、この本質が一であること、善であること、真であるということをもたらす。言い方を変えれば、存在者を存在者として理解してはじめて、存在者を一者として理解することが可能となる。第一の形相性(formalitas)から別の形相性が導かれているというわけだ。同じことが霊魂、知性、欲求の関係についてもいえる。まず霊魂が本質として理解される。次にこの本質が何かを理解するものとして理解されたときに、知性が名指される。何かを欲するものとして理解されたときには欲求が名指される。このような形相性をめぐる議論を近年では「新たなルキアノスたちや、ディアゴラスの台所番たち」が嘲笑している〔エラスムスを指していると思われる〕。だがその議論は最善の哲学者であるGuielmus Bigotiusによって行われている。Bigotiusは今日、深奥なる哲学を守り抜いているほぼ唯一の人間である。Petrus Danesiusはこの問題が難解であるのを認めながらも、重要な議論を行っている。

 もし知性が霊魂と現実的に区別されてしまえば、人間はまるで機械のように動かされるものになるだろう。なぜならその運動の原因を外部に持つことになるからである。人工物のように。このことは『形而上学』第12巻で説明されている。