- Julius Caesar Scaliger, Exotericae Exercitationes (Paris, 1557), 398v-399v (ex. 307, sec. 14).
『霊魂の不滅性について』(リヨン、1545年)のなかで、カルダーノはアヴェロエスとその先行者であるテミスティオスの狂った考えにしたがい、霊魂を可死的なものとした。これにたいして知性は万物に浸透している。各事物は自分に入ってきた知性を自らの命を守るために用いる。この点で知性はいわば非物体的な太陽のようなものである。それはあらゆる事物を照らしだしている。
「テミスティオス、そして彼以前にはプロティノスは、この知性を人間のみに与えた。一方あなた[カルダーノ]は、私が思うところではアナクサゴラスの夢想に着想を得て、他の事物にもこの知性を分配してはばからなかった。そのため犬、セミ、そして石にまでこの知性が存在することになった。だがそれらの事物においては質料の状態が劣等であるため、知性は何の役割も果たしていない。したがってこの知性はそれ自体としてはすべてを照らしだしているのだが、すべてが照らしだされているわけではない」(Hunc [intellectum] Themistius, atque ante eum Plotinus, cum solis hominibus delegasset, tu ex Anaxagorae somniis, ut opinor, allis quoque distribuere ausus es: ita ut etiam cani, etiam cicadae, etiam lapidi assistat: sed inutilis, ob ineptitudinem materiae. Illum igitur, quantum in se est, illustrare omnia: at non omnia illustrari)。
こうして想定されたアナクサゴラス的な知性は万物を混ぜあわせ、秩序づけ、保存している。だがどうして知性はこのようなきわめて大変な業をなしつづけるのだろうか。霊魂に実体を与えてしまえば、その霊魂には光も与えたことになり、今度は霊魂が事物を照らしはじめるのではないだろうか。一つの知性がすべてを司りつづける必要はないのだ。
「しかもあなたはこれらのくだらないたわごとをまるでアリストテレスの見解からとったものであるかのように真剣に説いてはばからないのか?もしそうであるなら、どうやってアリストテレスはプラトンのイデア論に異議を唱えることができただろうか。というのも、アリストテレスによるイデア論にたいする異議を申し立ては、ほかならぬイデアが個別的な一者であり、離存的なものだという点に向けられていたからである。同じものが個別の事物の外にありながら、それらのうちにもあり、また離存的でありながら、結合してもいるというというのは不可能だというのだ。[もしアリストテレスがあなたの考えるアナクサゴラス的な知性の存在を説いているなら、]アリストテレスはまさにこれらが同時に成りたつことを、一つであり、分有可能であり、離存的である知性によって認めてしまうことになるだろう」(Atque hasce naenias audes asseveranter praedicare quasi ex Aristotelis sententia? Quod si ita esset: quo posset ille modo Platonicas ideas impugnare? Nihil enim aliud, quod obiiciat, habet, quam quod idea unum singlare est, idemque separatum. Quocirca non potest idem esse extra singularia, et in singularibus, separabile, et coniunctum. Hoc enim idem pateretur ille cum suo intellectu, et uno, et communicabili, et separabili)。
以上のようなカルダーノの見解は、身体には二つ霊魂があるとみなしているに等しい。このうち知性の方は、身体を身体たらしめているわけではない。ここでカルダーノはピュタゴラスに接近している。ピュタゴラスにとって霊魂とは身体を身体たらしめているわけではなく、単に身体をいわば乗り物として使っているだけだからだ。ここからピュタゴラスによる霊魂の輪廻転生説が生じる。この馬鹿げた見解にカルダーノの学説は親和的だし、事実カルダーノはそれを十分に論駁できていない。
アリストテレスによれば知性は「外から」来る。このとき知性はあらかじめあった霊魂と結合するのだろうか。結合するとすると知性は霊魂の形相ということになる。とすると霊魂は知性によってはじめて身体の完全現実態になれることになる。その意味で霊魂はそれ自体としては完全現実態ではない。しかしアリストテレスは霊魂を完全現実態と定義していたのであった。よって知性は外からきて霊魂と結合するわけではない。だがもし知性が霊魂と結合しないとすると、それはただ人間を照らしだすために知性が傍らにいるということになってしまう。このとき知性認識する主体は人間ではなくなってしまう。これは不合理である。
とすると知性は外から来て、この知性はまた霊魂でもあると考えねばならない。知性が霊魂と同じであるということは、アリストテレスが『政治学』第7巻で言っているとおりである。アフロディシアスのアレクサンドロスですらこの同一視を行っている。