アヴェロエスの過ち Scaliger, Exotericae Exercitationes, ex. 307, sec. 16

  • Julius Caesar Scaliger, Exotericae Exercitationes (Paris, 1557), 400r-401v (ex. 307, sec. 16).

 「ここから知性は普遍的なものであり、この知性によって個物は認識されないと言った者たちの過ちが十分に明白となる。彼らによると、知性が個物を認識しないのは、もし個物を認識してしまえば、知性自体が個物となってしまうからである。よって彼らは別の個物を認識する能力を代わりに立てた。これが人間の霊魂である」(Ex his satis manifestum est eorum error, qui intellectum dixerunt esse universalem: neque ab eo cognosci singularia. Fore enim, ut evaderet singularis, si cognosceret singularia. Quapropter aliam facultatem substituere, quae esset anima hominis: cuius officium esset apprehensio singularium.)。

 なぜ彼らはこのように考えるにいたったのか。彼らの見解の基礎には、アヴェロエスの考えがある。アヴェロエスによれば、知性とは知性認識されたものである。したがってもし知性が個物を認識してしまえば、知性が個物になってしまう。とすると知性は個物なので、分有可能なものではなくなってしまう。これは知性が普遍的なものだという前提と矛盾する。

 だがアヴェロエスの見解は自己矛盾をきたしている。それは『霊魂論大注解』第3巻テキスト18番への注解を見ればわかる。アヴェロエスによれば知性はすべてを知性認識する以上、すべてにならねばならない。だが知性は端的な意味ですべてのものになるのではない。むしろ類似と受容という方法によってすべてのものになる。というのも、もし知性が認識するところのものそのものになってしまえば、知性は石になってしまうから。よって人間の知性は石そのものになるのではなく、石の形象になると考えねばならない。しかしこう考えるなら、個物の認識により知性が個物そのものになると考える必要はどこにもないではないか。

 しかももし普遍的知性たる能動知性が普遍をつくりだすなら、知性はあらかじめ個物を認識していなければならないのではないか。というのも普遍は個物から特定の場所や特定の時間といった特殊な状況をとりのぞいて生み出されるのだから。

 また普遍的知性が普遍を認識するからといって普遍になるわけではあるまい。その知性は本質からして個物なのだから(一つしかない)。またそれが受容する形象はたしかに普遍ではあるが、それぞれの形象は個別的な一つのものである。この一つのものが、あれやこれといった個物に適用される。このような普遍の形象だからこそ、一つの知性のうちで対立するものが同居できる。というのも、形象の本質というのは、事物自体とはまったく異なるからである。熱を認識したからといって熱が生じるわけではないのだ。

 アヴェロエスの次のような主張も正しくない。すなわち知性は個物を認識できないというものだ。そもそも個物を知らなければ「知性は個物を認識できない」ということすら知れないのではないか。また知性とは別に想定された霊魂(anima cogitativaと言われる)を持ちだしてもアヴェロエスの見解は維持できない。なぜならこの霊魂は知性を知ることができないため(知性は普遍なので)、結局「知性は個物を認識できない」という認識を確立できないからである。

 最後に知性が知性認識したものになるということもないことと、知性は霊魂にとって付帯性ではないということをあらためて確認しておこう。