デカルト哲学を巡る論争の神学的背景 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 1–6.

 デカルト哲学がどのようにオランダで受容されたかを調べた基本書のプロローグの前半部分を読む。ここで著者は、デカルト哲学を巡る論争が、それ以前からなされていた神学論争と重ね合わされて理解されていたことを主張している。

 改革派の神学に従うなら、救いは善き行いによってもたらされるわけではない。救いは信仰によってのみもたらされる。では、神は信仰を持つ者(神が救う者)をどうやって選ぶのか。ここで神が自由であり、それゆえ自分以外から影響を受けないことを考えるなら、神が救う者を選ぶとき、神は恣意的に選ぶことになるのではないかという懸念が生じる。この恣意性は神の善性と正義と両立するのだろうか。

 この問題は17世紀前半のオランダでは大変重要なものであった。ヤコブアルミニウスはこの問題に対して、信仰は神から押し付けられるものでなく、各人の判断で受け入れることも拒絶することもできるものだとした。またアルミニウスは、選びと救いのために、各人ができることは何もないという教義は、神の知恵、善性、正義に反しているとした。アルミニウスの論敵は、正統派神学者のフランシスクス・ゴマルスであった。

 この問題はコンラッド・フォルスティウスを巡る論争でさらに拡大した。ホラント州は1610年にレモンストラント派(アルミニウス派)のフォルスティウスをライデン大学の神学教授に任命した。これに対して正統派の神学者たちは直ちに抗議をはじめ、南ホラントの教会会議はフォルスティウスの任命撤回を求めることになる。この動きに英国のジェームズ一世も同調する。オランダの孤立することを避けるためには、宗教上の問題を各州の管轄事項ではなく、連邦議会の管轄事項にせねばならなかった。これはレモンストラント派には大きな打撃だった。彼らはホラント州では多数派であっても、7つの州全体では少数派だったからである。

 フォルスティウスをめぐる論争は、聖書解釈を巡る問題へと論点を拡大させた。レモンストラント派によれば、聖書の解釈は人間が行うため、聖書解釈によって導かれた信条はすべて暫定的なものである。聖書そのものだけが教会の信仰の基礎となりうる。これに対して正統派は、聖書を信仰の究極の基礎として認めつつも、そこから解釈によって導かれた信条が暫定的なものだとは考えなかった。そのように考えてしまうと、懐疑主義無神論への道が開かれてしまう。聖書の解釈とは、論理と一般的に認められていることにしたがって、聖書で言われていることや示唆されていることを明確にすることである。この問題は、宗教改革の核心にある問題であった。改革者たちはカトリック教会の伝統や教皇の権威が信条を決定することを否定した。しかし同時に、各人の聖書解釈以外に何らの権威を認めようとしない再洗礼派やその他の熱狂主義者たちが秩序を破壊することも懸念していた。聖書のみを信仰の基準としながら、秩序を保つにはどうしたらいいのか。

 1625年に正統派を支持していたマウリッツが亡くなり、フレデリック・ヘンリドリックが州総督になると、レモンストラント派が復帰してくる。1622年にはシモン・エピスコピウスが『告白』を出版する。エピスコピウスは、聖書は「正しい理性」によって解釈されるべきだ主張し、また神は決して人間の自由を廃棄してはいないとした。『告白』はライデンの神学部によって禁書とされ、エピスコピウスは対抗して『弁明』を出版することになる。『告白』と『弁明』は激しい攻撃にさらされた。1631年にニコラウス・フェデリウスは『アルミニウス主義の秘密』を出版する。ギスベルトゥス・ヴォエティウスは、スホーキウスと協力して1635年に『テルシーテース』を出版した。また、1650年にはライデンの神学者ヤコブス・トリグラディウスがレモンストラント派のヨハネス・ウィテンボーゲールトの批判書を出版した。

 以上のようなアルミニウス主義を巡る論争は、デカルト主義を巡る論争と深く関係している。正統派の神学者たちは、デカルト主義はアルミニウス主義と同じように、オランダ内での意見の一致を脅かすものだとみなした。ヤコブス・レヴィウスは「アルミニウス主義は去ったが、その代わりにデカルト主義が来た。これはさらに悪いものである」(p. 5)と述べた。また、レモンストラント主義を巡る論争点の多くが、デカルト主義を巡る論争において再び取り上げられた。フェデリウスは著作の中でレモンストラント派の誤ちを列挙している。それは懐疑、懐疑主義無神論、理性と進行の関係、聖書の理性主義的解釈、根本的な信条と派生的な信条の区別、神の一性と単純性、意志の自由、身体と霊魂の関係についてである。これらの論点はデカルト主義を巡る論争でも取り上げられることになる。同じように、ヴォエティウスの『テルシーテース』で論じられた論点が再び、スホーキウスのデカルト批判書(『驚くべき方法』)で取り上げられることになった。

 また、レモンストラント派は、デカルトがレヴィウスとヴォエティウスと対立するのを見て、デカルトに好意的に言及するようになる。たとえば、レモンストラント派のバテリエは、デカルトのヴォエティウス評に言及する。また同じくレモンストラント派のエティエンヌ・ド・クルセルはデカルトの『方法序説』のラテン語訳を作成した。

 もちろん、レモンストラント派とデカルト主義のあいだに論理的なつながりがあるわけではない。ほとんどのデカルト主義者たちはレモンストラント派ではなく正統派であったし、レモンストラント派は神の観念の生得性を認めない点で、デカルトとは異なっていた。しかし、デカルトの人間の自由に関する解釈はしばしばペラギウス主義とされ、このペラギウス主義を媒介にして、レモンストラント派と関連付けられていた。さらにデカルト主義者たちが後にコペルニクス主義を支持したことは、彼らが聖書を合理主義的に解釈しているという批判を招いた。このようにデカルトと正統派の対立は、当時の宗教対立の枠組みのなかで解釈されたのである。