無神論者デカルト Verbeek, "Descartes and the Problem of Atheism"

  • Theo Verbeek, "Descartes and the Problem of Atheism: The Utrecht Crisis," Nederlands archief voor kerkgeschiedenis 71 (1991): 211–223.

 ライデン大学神学部教授のヴォエティウスとその弟子スホーキウス(1614–1669)は、デカルト無神論者にして懐疑論者と批判した。なぜだろうか。まず無神論に関する論点からみていこう。ヴォエティウスが危惧したのは、神の存在をはっきりと否定する直接的無神論ではなかった。むしろ神は存在しないとか神の存在は確実ではないということを示唆する間接的無神論が警戒の対象だった。後者のカテゴリーには、ヴァニーニやレモンストラント派が入る。同じ範疇にデカルトが入るのは不思議ではない。
 スホーキウスがデカルト無神論者とみなすのは、デカルトによる神の存在証明が不十分だからだ。デカルトの証明は、もっぱら神についての生得的な観念にもとづいている。しかしスホーキウスによれば、無限なものについての観念を有限なものがもつことはできない。むしろ神の存在証明は、自然をみてその原因としての神を認識するという宇宙論的なものでなければならない。しかしデカルトは宇宙の存在を懐疑にさらしてしまう。よってデカルトは一種の無神論者なのだ。またデカルトの証明は、私たちがもつ観念の対象はなんであれ存在するという帰結を招く。これは個人の想念から神を見いだすことを可能とする考えである。ここから教会による媒介を否定する「熱狂主義 Enthusiasm」が支持されてしまう。さらに、デカルトは観念の原因を問うている。これは観念を一個の存在者とみなすことにほかならない。すると神の観念は存在者であり、これ自体が神となり、つまりは自らのうちに神ありと主張する熱狂家たちの主張に近づいてしまう(彼らはさらに自分たちは神だと主張しているわけだが)。
 次に懐疑論である。絶対的な確実性を求め、蓋然的な知としてのアリストテレス主義を放棄するデカルトは、実際には懐疑を克服するに十分な議論を提出しておらず、結局は懐疑にとらわれてしまっている。デカルトデカルトの支持者が見いだしていると主張している真理とは、彼らの妄想に過ぎない。
 この論争からうかがえる対立の構造は次のようなものだ。ヴォエティウスは、信仰の源泉は神の言葉のみであり、理性が信仰の規範となることはありえないと考えた。だが同時に神は、理性をもちいて世界を探求する者に自らをあらわしている。よって理性は聖書のメッセージを補強することはできる。この補助的な役割を果たす理性は、一般通念にもとづくものでなければならなかった。それは聖書の権威をおかさずにそれを補強するつつましい役割をはたす。このために彼は通念に依拠するアリストテレス主義を支持した。ここからヴォエティウスのデカルトへの反発も理解できる。理性を通念から切り離し、理性だけを通じた神の認識の可能性を探ることは、聖書の権威をおかすことになる。こうして改革派がドルトレヒト会議でつくりだした正統的神学が危機にさらされてしまうというのだ。

ノート

 結論部でデカルト主義、熱狂主義、聖書解釈、媒介としての教会の関係についての考察をより深めるべきであった。