『事物の本性について』1. 159-214

  なぜなら、もし無からものが生じてしまうのなら、すべてのものからすべての種族が生まれることができ、種はまったく必要なくなってしまうのだ。

まず海からは人間が、大地からはウロコのある種族が生じることができ、鳥たちが空で孵化することができるようになる。家畜やあらゆる種類の野の獣が、その生まれが定まらず、耕地や荒野に住むようになるだろう。

同じように、樹木の果実も一定したものでないのが当たり前になり、変化して、あらゆる樹木があらゆる果実をつけるようになる。

それぞれのものに、何かを生み出す体がないというのに、どうしてものごとの母である大地が、定まったものであることができるだろう。

だが本当は決まった種からそれぞれのものは生まれ、そこから生まれ出でて光の岸辺へと出て行く。その種にはそれぞれのものの素材、最初の体が入っている。

だからあらゆるものからあらゆるものが生まれることはできない。決められたものの中に秘められた能力が入っているのだから。

 どうして私たちは春にはバラを、夏には穀物を、秋が催促すればぶどう酒が注がれるのを目にするのだろう。もし、その理由が、季節が近づいて、生き生きとした大地が柔らかいものを無事に光の岸辺へと運び出しているあいだに、ものの種子がおのれの時になって合流するときに、つくられるものはなんであれその姿を現すから、というものでないならば。

もし無からものが生じるとすれば、突然決められてもいないときや一年の不適当な時期に生じてくることになる。なぜなら不適当なときにものの集合が生じないでいられるような始まりというものがないからである。

 その上、ものごとが大きくなるためは、種子が集まるための時間も必要ないことになる。もし無から成長することができるならば。

なぜなら青年がいきなり小さな子から生まれ、大地からは突如として樹木が飛び出てくることになるから。

これらのことのうち何一つとして生じえないことは明白である。なぜならすべてのものは少しずつ成長し(種子と言うのは決まったものなのだからこれは当然である)、ものは成長することによって種族を保存するのだから。だから、それぞれのものは自らに固有の素材から大きくなり養われるということが分かるのである。

 ここで一年の決められた雨がなければ大地はニッコニコの実りを送り出すことが出来ず、さらに動物の本性は、食べ物から切り離されてしまえば、種族を生み出し、命を守ることができないということが起こる。

だから何かものが始まりもなしに出現することができるというよりも、多くのものに共通のもの(元素と言う言葉で私たちが理解しているように)がたくさんあると考えたほうがよいのである。

 どうして自然は大きな人間を作り出すことはできなかったのだろう。足で浅瀬を通って海を渡ったり、腕で大きな岩をちぎったり、生きることで一生涯を打ち負かすことができるような人間を。その理由が、そこから生じることができるものが常に一定であるような、ものごとを生み出すための素材が定まっているというのでなければ。

だから無からは何も生じないということは認められなければならない。なぜならものごとには、そこからそれぞれのものが生み出され、柔らかな空気の風へと運ばれることができるような種子が必要だからである。

 最後に耕されていない土地よりも、耕された土地の方が優れていて、手を加えることで実りはより豊かになるということを私たちは知っているのだから、土地にはものごとのはじまるとなるものがあり、私たちは豊かな土くれを犂を使って、土地の土を仕込んで、それを誕生まで持っていく。

もし何の起点もないならば、それぞれのものは私たちが手間隙をかけずとも、自ずから、はるかに豊かに生じてくることになるだろう。