スカリゲルとハーヴェイ

 パーゲルのハーヴェイ本を読んでいて、現代の歴史家たちのスカリゲルに対する誤解はハーヴェイに由来するのではないかと思い始めました。

 誤解というのはスカリゲルとフェルネル(Jean Fernel, 1497-1558)の関係についてです。スカリゲルはフェルネルを念頭に置きながら、次のように述べます。

At iidem recentiores et arbitrati sunt, et prodiderunt, extrinsecus advenire forman omnem [...].
同じ近年の哲学者たちが次のように考え著作に記している。すなわち、すべての形相は外部から来るというのだ(後略)。

 この説にスカリゲルは反対です。彼は次のように述べます。

[...] in semine animam inesse, quae sibi corpus fabricet. [...] Semen, inquit, est sicut artifex. Habet autem artifex formam in sua potestate. [...] Eam sane formam imponit materiae: non autem excipit extrinsecus , tanquam hospitem, aut inquilinam: sed habet indigenam, atque autophue^n[Greek].

(前略)〔アリストテレスの意見では〕種子の中に身体を作るための魂が宿っている。(中略)アリストテレスいわく、種子は職人のようなものである。一方、職人は形相を自らの力のうちに持っている。(中略)種子はこの形相を質料にあてがうのであり、客や借家の住人のように形相を外部から受け取るのではない。種子は形相を生来のものとして持っている。

 というように、形相が種子の外部から来るか内部から来るかという点でスカリゲルとフェルネルは対立しています。それなのに現代の研究者の Emerton は次のように書きます。

Jean Fernel and Julius Caesar Scaliger, who stressed the form's celestial origin by naming it "quintessence" and "fifth element,

ジャン・フェルネルとユリウス・カエサル・スカリゲル。彼らは形相が天に由来するものであることを、形相を「第五元素」と名づけることによって強調した。

 と、歴史的事実とは反対にフェルネルとスカリゲルが同じ立場に立っているかのように述べられています。Emertonと同じようにGiglioniもDe Angelisも、まるでスカリゲルが実質的にフェルネルと同じ議論を支持していたかのような書き方をしています。

 どうして歴史家たちがこんな変なミスを犯すのかと思っていたら、Pagelによるハーヴェイ本にヒントがありました。実はハーヴェイが『動物発生についての演習』の中で、事物の発生に寄与する精気が外部から来るという説をフェルネルと並んでスカリゲルに帰しているようです(253頁)。

 ハーヴェイがスカリゲルを直接読んだのか、それとも間にゴクレニウスあたりがいるのかどうかは分かりません(後者だとしたらとても面白い)。しかし現代の歴史家の誤解の根源はどうやらこの辺りにありそうです。

 ところでハーヴェイの『動物発生についての演習』にはまだ校訂版がないのですかね。