天球を動かすのはなにか アヴェロエス『天球の実体について』

  • Averroes, De substantia orbis, ed. and trans. Arthur Hyman (Cambridge, MA: The Medieval Academy of America and the Israel Academy of Sciences and Humanities, 1986).
  • Pierre Duhem, Le système du monde: histoire des doctrines cosmologiques de Platon à Copernic, vol. 4 (Paris: Hermann, 1954), 548-57.
  • http://d.hatena.ne.jp/la-danse/20060821

 アヴェロエスの『天球の実体について』を調べました。この著作を扱った研究として同著作の校訂・英語訳につけられた詳細な注とデュエムの『世界の体系』の第4巻があります。後者はすでに四年前(!)にアダムさんがブログで言及していますね。

 デュエムに沿ってアヴェロエスの見解をまとめると次のようになります。一つの天球の運動を説明するためには二つの動者を想定しなくてはなりません。その一つは天球から離れて存在する知性です。もう一つは天球の形相です。後者は形相と呼ばれてはいるものの、月下の事物に宿る形相とは違います。なぜなら天球の形相とその質料との結びつきは一運動という側面でのことに限られるからです。

 これら二つの動者は一体どのようにして天球の運動を生み出すのでしょうか。これを解く鍵は天球の運動に見られる二つの特徴にあります。天球は有限の速度で回転すると同時に無限の時間運動を継続します。有限の速度で回転する以上、天球を動かす動者が行使している力は有限でなければなりません。しかし同時に無限の期間運動を続けさせる以上、その有限の力の源泉は無限でなくてはなりません。この二つの要件を同時に満たすにはどうすればよいか。

 ここで前述の二つの動者がそれぞれ運動の継続の無限性と運動の速度の有限性を担保することになります。天球から離れて存在する知性は無限の力を有しています。この知性を天球の形相が愛することで、知性が持つ力が永遠に形相に供給され続けます。こうして供給された力自体は有限であるので、この力を形相が行使することで有限の速度の運動が生じます。こうして有限にして無限の天球の運動が成立するというわけです。

 天球の形相は知性を愛します。とするならばこれを霊魂といってもよいのではないか。アヴェロエスはこの問いに対して月下界の霊魂とのアナロジーとしてならば、天球の形相を霊魂と呼ぶことも許されると答えます。

 以上の説明は一見筋が通って見えるものの、二点問題を抱えています。第一にこれはほとんどアヴィセンナの見解と区別が付きません。もちろん知性から知性・霊魂・質料が生まれるという流出論的な世界観を否定するという点で両者は決定的に異なっています。しかし天球の運動を知性と(アナロジーによるとはいえ)霊魂の働きに帰すというのはあまりにアヴィセンナ的ではないでしょうか。

 もう一つの難点はアヴェロエス自体の考えとの不整合です。デュエムも指摘しているように、アヴェロエスは『天球の実体について』で天では運動の作用因と目的因は異ならないと述べています。しかし上述の説明では天球の形相が作用因であり、知性が目的因となっており両者が分離しています。

 これらの問題点を解決するにはどうすればよいか。そこでHymanの研究を見るとこれら二つの動者を一つの存在の二つの異なる側面と理解できないかと書かれています。すなわち天球の形相は一方では知性を愛することで無限の期間有限の力を得ることで作用因として天球を回転させます。しかし他方ではそれは愛の対象として自らが有する無限の力を供給することで目的因として天球を回転させるというわけです。

 自分で自分を愛する形相!これはあまりに奇怪な見解です。しかし確かに次のようなアヴェロエスの発言には合致しています。

敵対者[アヴィセンナ]は天の物体を動かす形相を天球がそこに向かって動かされるところの天球と異なると言うべきではない。(De substantia orbis, p. 70; 英語訳から)

アヴェロエスは知性と霊魂の二つの区別される動者によって天球が動くという見解をアヴィセンナ的であるとして否定していたのです。その彼がともすれば二つの動者を想定しているように取られかねない論を展開しているのは皮肉ではあります。しかしやはり我々としては彼の当初の志を取って、アヴェロエスは知性が目的因、作用因双方の役割を果たして天球を動かしていると解釈するべきなのでしょう。

 あともう一点。彼は上記の(少なくとも議論の上では区別される)知性と霊魂をそれぞれ「永続的な回転を与える力」、「場所運動を与える力」と言い換えたりしていています。このように天球の運動を力に還元していくような議論の方向性というのは彼以前にあったのでしょうか。そして彼以後どのような影響を与えたのでしょうか。この点についてはさらなる調査が必要となりそうです。