神からの存在の流出、天の本性 - デュエム『世界の体系』より

  • Pierre Duhem, Le système du monde: histoire des doctrines cosmologiques de Platon à Copernic, vol. 4 (Paris: Hermann), 439-53.

 『世界の体系』第4巻から「神からの存在の流出、天の本性」という節を抜き出して読みました。さすがデュエム、目が覚めるような明晰な論述です。ほとんどが引用なのに!

 ここで彼が論じているのは神からどのようにして事物が流出してくるかという問題です。取り上げられるのはファーラービー、アヴィセンナガザーリーの著作です。

 デュエムによれば彼らは知性から知性・霊魂・天球(の質料)の三者が流出するという見解を共有していました。神から第一の知性が流出した後に来る段階を用いてこの過程を説明すると次のようになります。

 まずは第二の知性が第一の知性を認識します。ここから第三の知性が生じます。さらに第二の知性は自分自身を認識します。この自己認識は二つの側面を持っています。第一にそれは必然的な存在者としての自己を認識するという性質を持ちます。ここで第二の知性が必然的に存在するというのは、さらに上位に存在する第一の知性を原因として持つことでその存在が必然的なものとなっているという意味です。ここから自己認識の第二の側面が現れます。それは可能的な存在者としての自己を認識するというものです。というのも第二の知性が必然的な存在者であるのはあくまで第一の知性を原因として持つからであるので、第二知性独立で考えればそれは可能的な存在者に留まるからです。

 こうして二つに分かれた自己認識から二つのものが生じます。すなわち必然者としての自己を認識することから天球の霊魂が生まれ、可能的な存在者としての自己を認識することから天球の質料が生じます。これは必然者と可能的存在者はそれぞれ形相と質料に似ているという前提から来る帰結です。そのため必然者を認識することからは天球の形相である霊魂が生まれ、可能的存在者を認識することからは天球の質料が生まれるというわけです。

 目の回る議論ですけれど大体の意味は取れますね。デュエムはこの流出理論が(時系列的に最初に来る)ファーラービーの発案によるものかという問いには率直に分からないという答えています。この点についてさらに深めるにはデイヴィッドソンの著作に当る必要がありそうです(まだ見ていないのかよという突っ込みはよして)。

 ところでこの節の最後でデュエムアヴィセンナガザーリーが天空の回転は地上の事物のためにあるという見解に反対しているということを指摘しています。ガザーリーによればAがBのために活動する場合、Bの方がAより高貴でなければなりません。したがってもし天が月下の事物のために活動するならば、月下の事物の方が天よりも高貴であるという不合理な結論が生じます。したがって天が月下の事物のためにあるという見解は否定されるべきということになります。

 しかしここで一つ反論が予想されます。羊飼いは羊のために活動している。すると羊飼いは羊より下等になるのか?預言者は民衆のために活動している。すると預言者は民衆より下等となるのか。

 これに対してガザーリーは次のように答えます。羊飼いを羊の世話をする物という側面のみを考慮して考えれば、確かに羊飼いは羊より下等である。しかしすでに羊飼いは彼が人間であるという点で羊よりも高貴である。同じように預言者預言者である時点ですでに民衆より高貴なのである。

 以上のような議論を引用したあと、デュエムは次のような言葉で節を締めくくります。

いかなる哲学者ももし彼がキリスト教の外部にいたならば次のことを理解できなかったに違いない。すなわちより上位にいる者が自らを損なうことなく下位の者の幸せを望む――このような好意があるということをである。いかなる哲学者も預言者がおのれの民を、よき羊飼いが彼の羊たちを愛する、しかもおのれの命を彼らのために差しだすほどに愛するといったことを理解できなかったに違いない。

 私にはこれはもはやアヴィセンナガザーリーの哲学を解説したというよりも、デュエム自身の信仰が滲み出た告白であるように思えます。