ここまでの調査 カルダーノのアヴェロエス、テミスティオス、テオフラストス解釈について

 カルダーノアヴェロエス、テミスティオス、テオフラストスは霊魂は不死で一つだと言っている」→これはテミスティオスの知性論(そこでテオフラストスも引かれている)を霊魂論としてカルダーノが解釈しているんだな。→いやテミスティオスとテオフラストスはアヴェロエスの『霊魂論大注解』で引かれていて、カルダーノはそこを使っているんじゃないのか?とヒロさんに言われる→アヴェロエスを見てみると確かに受動知性が一つだという話のところでテミスティオスとテオフラストスが引かれている。→でもよく見ると受動知性が一つだという主張がテミスティオスに帰されているわけじゃないな。→直接テミスティオスを見てみたら確かに受動知性が一つだと書かれている!→あれれ?トマス・アクィナスの解釈だとテミスティオスは受動知性は人間の数だけある、つまり一つじゃないと主張したことになっているぞ。→中世関係の文献を調べるとどうやらテミスティオスの知性論については色々な解釈の仕方があって、これは現在まで論争が続いているテーマのようだ。→さて冒頭のカルダーノの主張をどう解釈しようか。

 おそらく事態はこんな感じでしょうか。テミスティオスの『霊魂論要約』は受動知性が一つであると読むことが可能な文章を含む。またアヴェロエスは『霊魂論大注解』のなかでテミスティオスが「受動知性は生成消滅しない単純なものだ」と主張していると書いており、この主張に賛意を表明している。同じ個所でアヴェロエスは受動知性の単一性を主張しており、アヴェロエスが受動知性の解釈でテミスティオスと自分は一致していると書いている以上、彼が受動知性を単一性の主張をテミスティオスに帰していたと読めないことはない(実際にトマス・アクィナスはそう読んでいた)。ここからカルダーノは受動知性の単一性をテミスティオスとアヴェロエスの両方が主張していたと考えるようになった。

 いや、うーん、これは…。カルダーノが使ったテミスティオスの翻訳はたぶんバルバロ訳なのでその該当箇所を見ないとなぁ。