アリストテレスにとって元素の目的とはなんだったのか Johnson, Aristotle on Teleology, ch. 5

Aristotle on Teleology (Oxford Aristotle Studies)

Aristotle on Teleology (Oxford Aristotle Studies)

  • Monte Ransome Johnson, Aristotle on Teleology (Oxford: Clarendon Press, 2005).

 アリストテレスの目的論を扱った基本書です。元素の目的性を扱った第5章を読みました(131–58)。アリストテレスといえば目的論の哲学者といってよいほど、彼の目的論は有名ですし、実際彼の哲学の基礎には目的の概念があります。彼は現象についての十分な説明というのは、それがどのように起こっているかだけではなく、それがなんのために起こっているかまで説明できなければならないと考えていました。この目的論が彼の生物研究に由来するものであるということも広く認められていると思われます。簡単に言って生物の究極目的というのは生きて子孫を残すことであるというところから出発して、この思考方式を哲学の全体にまで拡大しようとしたのがアリストテレスです。

 では元素は?土、火、水、空気の目的とはなんでしょうか。このことを考えるためにはまずアリストテレスの自然学全体を規定している自然概念を理解せねばなりません。彼にとって自然というのは、何らかの物体の内部にある変化のための原理でした。ここで物体というのは単純な物体と複合的な物体の2種類があり、元素は単純な物体に該当します。では内的な自然にしたがって、元素が行う運動とはなんでしょう。それは土と水は世界の中心(すなわち地球の中心)へ落ち、火と空気は中心から離れて上昇するというものでした。元素は生物ではないので自分で自分を動かすことが出来ません。しかし何らかのきっかけ(これが何かは私にはよく分かりませんし、筆者も踏み込んで検討していません)を与えられれば、内的な原理にしたがって上昇か下降の2種類の運動をするとアリストテレスは考えていました。元素は何かに強制されるわけではなく自然に運動を行うのだから、この運動こそが元素の目的としてとらえられるべきだとアリストテレスは考えていました。なんだかトートロジーになっている気がしますけど。

 元素には中心に向かったり、そこから離れるだけでなく、もう一つの種類の変化を行います。それは元素相互間での変化です(たとえば空気から水が生じる)。この変化は何のために起こっているのか。ここでギリシア思想の根幹を占める(なんの根拠もないように思われる)前提が出てきます。何かがあるということは何かがないということよりよい。しかも何かが常にあり続けるほうが、あったりなかったりするよりもよい。しかもあり続けているもののなかでも、一切の変化を受け入れずにあり続けるもののほうが、何らかの変化をこうむりながらあり続けるものよりもよい。変わらないで一定の状態であり続けるものこそよいという信念です。地上の事物は残念ながらこのような理想状態を達成できません。だからそれは生成と消滅とを繰り返して円環状態を達成することで、永遠の安定状態を模倣している。この円環というのは実は月より上の天上世界でも実現しています。そこでは生成と消滅はないものの、永遠の回転運動を行うことで、一切の変化のない理想状態を模倣しているからです。要するに、世界というのは永遠の安定性を獲得できないために、それに近似した円環というのを至る所で実現していて、元素の水準ではそれが相互転化であるということです。この円環を達成して永続性の近似を達成することが、相互転化の目的であるということになります。

 こうして元素の上昇・下降運動はその内的原理にしたがったものであるがゆえに、また相互転化は円環の形成による永続性の模倣であるために、元素の目的として説明できることになります。しかし元素の目的性を認めるのはここに留めねばならないと筆者は強調します。たとえば水が雨として大地に降下し作物を育てるからといって、水や雨が人間のためにあると言ってはなりません。雨が作物の成長にとって有用であるのは、あくまでそれを人間が農業技術を使って利用しているからであって、その利用が水自体の目的を構成することはないからです。あくまで水の目的というのは、水自体を受益者とするような現象(つまり世界の中心への下降と他の元素への転化)に限定して考えられなくてはなりません。ここには、アリストテレスの目的論を様々な種類の存在者の相互依存の壮大な体系(エコシステムのようなもの)を形作る全体的な目的論としてではなく、あくまで個々の種が自らにとっての目的を有するという個別性に基礎をおく目的論として解釈しようとする著者のスタンスがあらわれています。