初期近代の哲学における中国文化

The Cambridge History of Seventeenth-Century Philosophy 2 Volume Paperback Set

The Cambridge History of Seventeenth-Century Philosophy 2 Volume Paperback Set

  • D. E. Mungello, "European Philosophical Responses to Non-European Culture: China," in The Cambridge History of Seventeenth-century Philosophy, ed. Danial Garber and Michael Ayers (Cambridge: Cambridge University Press, 1998), 87–100.

 初期近代の哲学に中国文化、とりわけ儒教が与えた影響を探った論考を読みました。いわゆる地理上の発見がすすめられるなかで、探索された土地の文化を熱心に学び、その成果を書物や書簡を通して欧州へと伝えたのは探検家ではなく、むしろ現地の土着文化にキリスト教を溶けこませようとしていた宣教師たちでした。とりわけイエズス会は教育に重点をおいていた団体であったため、布教先の知のあり方に強い関心を示していました。会士たちは中国の儒学をおさめた官吏たちを布教の対象とし、彼らの奉じる儒教の研究を行います。その成果が著作の形で現れたのは1615年に出された『中国におけるキリスト教遠征』という書物で、これはマテオ・リッチとその同行者によって書かれた草稿を基にしていました。儒教のテキストがはじめて翻訳されたのは1687年で、『中国人の孔子哲学』と題された本で、ルイ14世に捧げられています。このこれまたイエズス会士たちによって製作された翻訳書には、寺院(?)と図書館が融合したような場所に立つ孔子が描かれています(冒頭の絵。ここからとりました)。孔子が宗教的偶像というより、学をおさめた賢人としてとらえられていることがわかります。

 こうして知見が広められていた中国文化にたいしては様々な反応がありました。まず聖書解釈について。聖書では大洪水が起こってノア以外みんな死んだという描写があります。この洪水の時期は当時の著名な年代学の書物による紀元前2349年であったとされていました。ところが1658年にイエズス会士が中国文明の開祖伏羲は紀元前2952年に遡るという見解を記した書物を出します。あれ、その時代からずっと中国人が中国に住んでいるなら、洪水のときにノアしか生き残らなかったっていうのは嘘にならない?困った。ここでイエズス会士たちは一つ抜け道を見つけました。先にあげた洪水を紀元前2349年とする推計は、旧約聖書ラテン語訳に基づいた推計でした。この参照先をギリシア語訳(七十人訳)に変えると、洪水の時期は紀元前2957年になる。おお、これなら中国文明の始まりが紀元前2952年でもぎりぎりセーフ。生き残りはノアだけとできる。というわけでイエズス会士たちは洪水の年代決定をギリシア語訳に基づいて行うようになりました。

 もう一つ中国文明が大きな影響を与えたのが普遍言語の探求の領域です。バベル以前にアダムが話していた言語はなんなのか。いや実はこれが中国語なんだ。ノアというのは堯のことで、洪水後にこの息子のセムが中国に移り住んで文明を開いた。この文明はバベル以前にできたものだから、中国にはアダムの言語が残っているんだよ!こんなことをいうやつもいました。

 しかしこのようなアダムの言語を復元させることよりも、むしろ1670年代以降の多くの人は、新たな普遍言語を構築しようと試みていました。この時に、アルファベットと違い、文字と事物、ないしは観念が対応しているように思われる中国語は、世界や考えを正確に反映する普遍言語をつくりだすヒントを与えてくれるのではないかと考えられました。またライプニッツのように自らの二進法算術のアイデア(これで創造も説明できるらしい)がすでに中国文明の開祖伏羲が残した方位図にしるされていると考えて盛り上がっている人間もいました。他方マルブランシュは世界を不可分な理と気の結合によって把握する儒教(正確には朱熹の思想)は、非物質的なものと物質的なものの独立を認めないスピノザ主義だとして批判し、返す刀で自分はスピノザ主義者ではないよとアピールしていました(中国哲学スピノザ思想と結びつけることは当時しばしば行われていたらしい)。