電気工としての歴史家 グリュジンスキ「カトリック王国」

 2002年5月号の『思想』では、前年の『アナール』誌で組まれた特集「グローバルな規模の歴史」の諸論考を翻訳掲載するというすばらしい企画が組まれています。その中から、フェリペ二世統治下の王国を題材に電気工としての歴史家という定式化を行った論文を読みました。西ヨーロッパのエスノセントリズムを内包した時代区分や地理的な枠組みが問題視されるようになってひさしいものの、それに代わる新たな分析枠組みを提供することは簡単ではありません。ヨーロッパ中心主義を告発したカルチュラル・スタディーズポストコロニアルスタディーズの背後には合衆国のエスノセントリズムが隠されていました。また比較史の分野は成果をうまく積み重ねることができていません。普遍性と単一性を志向する英米流のグローバル・ヒストリーが有望とも思えませんし、逆のミクロストリアは分析対象を全体から引き離してしまいます。

 そこで必要になるのが、伝統的な国民国家的歴史記述に代えて、多極的な諸世界の交流を復元する電気工としての歴史家の仕事です。この仕事は微視的な地点から立ち上げることもできます。しかしここでとりあげられるのは、「過去のある時点につくられた、地球的視野をもつ政治的集合体から定義づけられるような領野」です。これこそ当時の人々がカトリック王国と呼んだフェリペ二世の王国です。1580年からスペイン王と並んでポルトガル王を兼ねることになった彼は、アジア、アフリカ、アメリカにまたがる地球的規模の統治領域を手にしました。しかしこの王国は単一の政治システムや文明としてとらえることはできないものでした。それは複数の異なる政治的、経済的、社会的形態が内部で地球規模に交流する一種の劇場ともいうべきものでした。ではこの交流とはいかなるものだったのか。この分析のためのいくつかの視角を提示することにこの論考の大半は割かれています。

 それはたとえばヨーロッパ起源の都市というシステムや文学・哲学作品、そして法体系が大西洋、インド洋、太平洋にまたがって拡散するというヨーロッパ的空間の膨張でありました。しかし同時にそれは地球規模で距離が圧縮されて、ヨーロッパ外部にあった消費物が欧州に流入してくる過程でもありました。タバコや様々な薬品がこれに当たります。これは経済的な動機と同時に科学的な関心や好奇心によっても駆動されていました。ここからわかるように当時ヨーロッパとはつながりがなかったか、ほとんどなかった社会が互いに国内で出会うということが起こっていました。大規模な調査(統計学の実践、遠征隊の派遣、各地での天文観測、調査票の配布と回収)が行われ、地球規模での各文明の比較考察が可能となっていました。単にヨーロッパと非ヨーロッパとの比較だけでなく、たとえば西インドと東インドが接近するということが、フェリペの王国では可能になっていました。この全体像の結びつきは非常に複雑で、植民地化による西洋化や、非欧州圏の人々を前面に押し立てる敗者の視点という見方ではとらえきれないものです。

 カトリック王国では、王国というグローバルの発生と連動して、ローカルの再定義が各地で行われていました。ネオ・ローカルの生成です。イベリア半島からの移植者によって創設された町は、スペイン風のものとして建設され、そこが彼らの新たな祖国となります。先住民社会ではイベリアとアメリカの制度の混合体が創出されます。またたとえばカンパネッラの『太陽の都』はキリスト教王国というグローバルな世界に、先住民社会をモデルに構想された理想的なローカル都市を描き出しました。地球規模の王国の各地で多様なグローバルとローカルの定式化がなされていたと言えます。

 王国を一つの王国たらしめていたのは内部での人々の移動でした。ヨーロッパから非ヨーロッパへ、非ヨーロッパからヨーロッパへと人々が移動し、その過程で異なる環境への適応が見られたり、異なる社会への詳細な観察がおこなわれたりしました。

 歴史意識の組み換えも起こります。たとえばヨーロッパの古典とアメリカ大陸を結びつける歴史認識が生み出されました。アメリカというのは古代文献に現れるインドであり、しかもユダヤ人の最後の部族は実はメキシコ人だから、つまりアメリカとヨーロッパというのは古代より歴史的に繋がっているのだ、という具合です。またインディオの過去と欧州の過去をコロンブスにいたるまでは並行的に記述し、そのなかでアメリカ大陸を新たに発見されたものではなく、欧州からの人々の約束された到来を待つ大陸として描き出す歴史書がナワトル語で書かれました。ローカルな記憶がどうしてグローバルな記憶でありうるかに当時の(とりわけ新大陸の)著述家は腐心していました。

 このような複雑な交流が行われている王国にはもちろん中心がありました。しかしその中心とて他の領域との接触により変容をこうむっていましたし、なにより中心から伸びる王国の権力が地球規模に広がる各地をコントロールしきることは到底できませんでした。王国で働いていた政治的作用というのはむしろ、そこでの相互作用を始動させるような関係性をつくり上げることでした。カトリック王国の事例は、グローバル化がはじめて世界に姿をあらわしはじめたときに、その内部の多極的世界にいかなる政治、経済、社会形態が混在していて、それらがどう互いに相互作用しているかという問題についての、興味深い事例を提供してくれるといえます。歴史家はこの相互作用を復元する電気工でなくてはならないのです。