「広島は逃げるように立ち去るべし」 江田島海軍兵学校と原子爆弾

 13日に亡くなった私の祖父は、いくつかの書物を自費出版しています。そのうちの一つは、市役所での仕事を中心にした自分史のようなものになっています。これは老齢に達した人がよく書くジャンルではないでしょうか。その本の冒頭部に、1945年8月6日以降に関する記述があったので、ここに抜き書きしておきます。私には興味深い証言に思えました。この時、坂本典昭は江田島海軍兵学校にいました。

 そして、運命の日、あの悪魔の火の爆発が8月6日午前8時15分、広島で爆発いたします。
 江田島の生徒館の中庭で体操を終わり、直立していた小生、ピカッとマグネシュウムを焚いたような閃光と、熱風の風圧を首に受けて思わず首筋に手をやります。
 ガラガラと生徒館の雨樋が崩れ落ち、何事ならんと振り向けば、なんと山のごとき火柱が数千米もそそり立ちさらに、火柱の上からモクモクと巨大な雲が、どこまでも盛り上がって行きます。やがて、「ドーン」と腹にこたえる爆発音、「地球が爆発したんだ」あの巨大な火柱から大地が割れて、自分の方に割れ目が伸び、その割れ目に落ちて、死ぬかもしれぬ、と思った時には、なにか知らないラッパが鳴り響き、夢中で一目散に、身近の防空壕に飛び込んでいました。
 壕の中で、燃料タンクは岩国にあり、これは7月の空襲で一日中燃えていた、火山のたぐいは広島には無い、されば、今の大爆発は空襲による爆弾か?そういえば、閃光のあとで爆音が聞こえた気がする。ときどき壕から首を出して広島の方角を見ると、天空が爆発の雲に覆われて、青天が一挙に曇天に変わっていました。
 生命はどうやら大丈夫らしいと判断し、壕から出たのは、12時、すぐに昼食をとり予定の課業にかかろうとしたら、生徒は生徒館で待機せよとの命令、なにかな?と思って待っていると、さらしの布が支給され、横30糎、縦60糎ぐらいの布を半分に折り、袋縫いをさせられる、なんのことかわからぬままに縫い上げると、頭からかぶり、眼のところに印しをつけて、小さな穴をあけさせられる。
 そこで、お達しがあり、生徒は今後、この袋を左のポケットに常時入れ、右のポケットには手袋を入れ、常に靴下をずらさずに引っ張り上げ、空襲警報が発令されれば、肌を露出してはならぬ、と厳命される。
 2日後の英語の授業で、広島の惨状を英語教官から英語で聞かされる。広島は80%の家が破壊され、20万人が殺されたとの悲惨な英会話の授業に、帝国海軍のメッカ江田島は急に敗戦ムードが漂い、あの厳しい規律が乱れ、規律を正す鉄拳制裁も無くなりました。
 8月9日、ソ連参戦の訓示を受けるために、全員が練兵場に走っていた時のこと、「校内の動作は凡て駆け足」この鉄則が破れて、生徒が走るのを止めて、立ち止まります。前を走っていた生徒から止まりかけて、やがて、全員が立ちつくし、皆んなが南西の方角を眺めます。そこには、あの広島と同じ茸雲が、マッチ棒の半分くらいの大きさで、青空の彼方に立ち上がっていました。
 「二発目が落とされた」生徒全員は暫くの間、凍りつくような思いで、じっと立ちすくんでいました。
 2、3日後、物理の教官から、原子爆弾の説明を聞く。アルファ線、ガンマー線、ベーター線などの放射能の被害の話だが、なんのことやら理解ができない。ただ、陸軍の兵士で飯合を持っていた兵士が、放射線を反射し被害が大きいとの話が耳に残っている。
 やがて、敗戦。広島経由で帰省となるが、「広島に滞在してはならぬ。広島の水を飲んではならぬ。広島は逃げるように立ち去るべし」との厳しい教官のお達しがあり、小生宇品で海軍のトラックを待つ間、喉の乾き堪えかねて、ほんの少し、壊れた水道の水をごわごわと飲みました。(2–4ページ)

 戦後40年以上たってからの回想であるため、この証言を細部にいたるまでそのまま信頼してよいかはわかりません。ただ記述に備わっている具体性は、坂本が大筋において当時江田島海軍兵学校で起こっていたことを正しく伝えていると推測させます。軍はただちに原子爆弾の危険性を認知し、投下されたその日の午後には肌の露出を禁ずる命令を末端の生徒にまで下していたこと。8月11日か12日には、兵学校の物理教官が原子爆弾のメカニズムと放射線障害について講義を行っていたこと。敗戦後、放射線被害を避けるために広島に長居してはならぬとの命令を生徒たちが受けていたこと。これらの諸点は事実であるとみなしてよいと思います。