質料形相論の多層性 Lüthy and Newman, "'Matter' and 'Form'"

 初期近代の質料形相論についての特集号から序文を読みました。アリストテレスの質料形相論は二つの視点から理解することができます。一つは、質料形相論とはおよそ変化を包括的に理解するための理論であり、それを支持することはある世界の見方を支持することに等しいというものです。この観点に立てば、質料形相論とはそれに代わる別の包括的理論が生み出されない限り棄却されません。実際にそれはデカルトニュートンの世界観によってとって代わられたことになります。しかしこの視点には難点があります。世界観の置きかえがいつ起こったのかを特定することが困難なのです。しかも質料、形相という言葉自体は新しい科学のうちでも使われ続けていました。この考えを突き詰めると、質料形相論の棄却よりも、その進化・発展として初期近代の歴史を捉えた方が適切となります。

 これらの見方は両方正しいと言えます。なぜか。質料形相論はたしかに一つの世界観として激しく攻撃されました。その最も激しい攻撃の形態は意外にもその初期の批判者にみられます。フランチェスコ・パトリッツィによる批判です。ただし彼の批判はそれに代わる実質的な代替案を伴っていませんでした。だからこそ彼は質料形相論の全体を攻撃できたといえます。これが時代が進み、デカルトニュートンの理論が有力な代替案として存在するようになると、そちら側の弱点もまた意識されるようになり、質料形相論で行われていた説明のあり方を新たな理論に取り込むということが行われるようになります。

 このように質料形相論が不信感を抱かれながらも全面的に棄却されることがなかったのは、そもそもこの理論が論理学、自然学、形而上学にまたがる多層的な含意を持っていたからです。多くのスコラ学者は質料と形相(とくに形相)の論理的な必要性については互いに同意していたものの、それが自然学のレベルでどう説明されるかについてはまったく意見の一致をみていませんでした。新科学の提唱者たちはこの弱点を付き、自然学のレベルで形相を物質の形状に還元しようとしたのです。しかしこの試みは十全には成功せず、多くの場合「形成的要因 formative agency」が常に残されることになりました。

 初期近代以降、質料形相論はどうなったのでしょう。一つの仮説は質料と形相という二元論でさまざまな領域の事象を統一的に説明できるという図式が崩壊していったということです。質料と形相という術語は使われ続けながらも、以後はさまざまな学問領域でその領域独自の説明方式が発展していくことになります。歴史家はそこで元来の質料形相論が持っていた多くの層のうちの、どこが否定され、どこか残され強化されているのかが問われなければなりません。